ポンプが水を送り出した後、必ず金剛砂を運び出し、砂や土、泥、腐った草などのものを運び出します。ポンプから水と共に送り出されるのです。送り出された後、この水は清浄なものと染汚(せんお)なものに分かれます。私たちの身・口・意の行いも同様に、如来蔵(にょらいぞう)が収蔵している業種(ごうしゅ)を送り出すとき、必ず清浄性と染汚性を伴います。業種自体が善悪と染汚に分かれているのです。私たちの六識(ろくしき)による身・口・意、あるいは第七識である意根(いこん)の心の行いは、善悪の性質を帯び、清浄と染汚の性質を帯びており、それからまた新たな造作(ぞうさ)を行い、再び貯蔵されます。もし全てが悪業を造作するならば、衆生は生死輪廻の苦海から脱することはできません。
もし私たちの業縁(ごうえん)が比較的良く、一定の福徳(ふくとく)があれば、善縁(ぜんえん)に巡り会い、身・口・意はそれに従って善業を造作し、同時に再び意根を熏染(くんぜん)し、意根の染汚性を転換します。そうすると種子は入れ替わり、心の状態は次第に清浄になっていき、将来善報を得ることになります。六識が良い縁に巡り会い、清浄な外部環境に出会うことは、まるでポンプが水を金剛砂のある場所、宝石のある場所に送り出すようなものです。水流はいくらかの金剛砂や宝石を巻き込みながら戻ってきて、砂や土、腐った草を幾らか取り除きます。水の中身は変化するのです。私たちの六識が清浄な環境、善なる境界に出会えば、清浄で善なる業行を造作し、識の種子はその清浄で善なる業行を如来蔵に持ち帰って貯蔵します。将来、善報を得ることになるのです。
もし善縁がなければ、六識が出会う環境は悪く、境界は善ならず、私たちの六識はおそらく悪い環境に従って、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の悪行を造作し、悪業は記録・貯蔵され、将来送り出されて悪果報を受けることになります。ちょうど水流が再びそれらの砂や土、汚れた物を持ち帰るようなもので、汚物はますます多くポンプ内に貯蔵され、再び送り出すときは全て汚物、全て汚染されたものばかりです。私たちの身・口・意の行いの造作がますます染汚していけば、業種は全て如来蔵に貯蔵され、送り出されるものは全て染汚したものばかりで、悪報を受ける結果しかなく、善報はありません。そうなると生死輪廻の中では、非常に苦しい生き方となるでしょう。
私たちは、如来蔵が業種を記録・収蔵・送り出す全過程を了知したならば、身・口・意の行いを注意深く造作しなければなりません。もし私たちの心の行いが貪・瞋・痴の煩悩を帯び、非常に悪質なものであれば、それは悪業の種子として貯蔵され、縁が熟せば悪報、染汚の果報を受けることになります。瞋恚(しんい)には瞋恚の果報が、貪欲には貪欲の果報が、愚痴には愚痴の果報があります。業行を造作したならば、必ずそれ相応の果報があるのです。業因果報(ごういんかほう)は少しの漏れもありません。なぜなら、一切の行為造作は全て如来蔵に存在しており、遅かれ早かれ必ず送り出されるからです。永遠に如来蔵の中に存在し続けることは不可能で、送り出される時が、まさに悪報を受ける時なのです。
ですから、私たちが身・口・意の行いを造作するときは、必ず注意に注意を重ね、慎重に慎重を期さなければなりません。身体が何を造作するかは、必ず慎重に考えてください。口が何を言うかは、必ず慎重に考えてください。心で何を思うかは、必ず慎重に考えてください。いい加減に注意もせずに良くない身・口・意の行いを造作し、自分自身に良くない悪い果報をもたらすような、そんな割に合わないことをしてはいけません。たとえ好ましくない悪しき境界に出会っても、私たちはできる限り耐え忍び、仔細に思惟し、注意深く行動し、悪しき境界に流されず、自心をしっかりと保ち、悪行を造作しないようにすべきです。意根が善縁によって熏染され、ある程度に至れば、再びどんな悪い境界に出会っても、悪業行を造作しなくなるでしょう。その時こそが良い状態なのです。
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