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日常法話

2018年06月17日    日曜日     第2開示 合計647開示

如来蔵はいかに業行を記録し業種を出力するか(八)

識種子が出力されてから回収されるまでの過程は、ちょうど循環ポンプのようなものである。如来蔵が業種子を記録し、業種子を収蔵し、業種子を出力するという全過程は、すなわち如来蔵が任運に働く過程であり、心行がなく、主観性がなく、完全に無為である。表面的には有為のように見える。如来蔵は絶えず働き続け、絶えず一切の法を生成しているように見えるが、実際にはすべて任運に働いており、主観的な能動性がなく、主宰性がなく、すべて無為性の心行である。なぜなら、そこには心行がなく、選択がなく、善と悪を了別せず、善と悪を選別もしないからである。善業であれ悪業であれ、一律に収蔵する。業種子を収蔵するのも能動的な収蔵ではなく、識種子が六塵を出力し、六塵を了別し、身口意の行を作造した後、識種子が自然に了別した内容を持ち帰り、身口意の行全体、すなわち業行全体を持ち帰るのである。

その中の心行、貪嗔性と清浄性の心行もすべて持ち帰られ、自然にそのまま、法爾如是に記憶されるのである。如来蔵が能動的に記憶するのでも、能動的に収蔵するのでもなく、法爾如是に、自然に、本来そうであるように、その全過程が少しの漏れもなくすべて収蔵されるのである。何を「点滴不漏」というのか。すべての識種子の了別した内容が持ち帰られ、少しの漏れもなく、すべて収蔵されるのである。これは如来蔵が能動的に漏らさないようにしているのでも、意図的に漏らさないようにしているのでもない。そうではなく、識種子が自然に持ち帰るのであり、いかなる選択もできず、選択もしないのである。六識の身口意の行が作造されれば、如来蔵には少しの選択性もなく、記憶するかしないかという選択もなく、何を記憶し何を記憶しないかという選択もないのである。

したがって、私たちの身口意の行の作造には細心の注意を払わなければならない。作造されたものが善であれ悪であれ、ほんのわずかな善であれ悪であれ、すべて種子として記憶され、将来、種子が出力されて果報を受ける時が来るのである。なぜなら、識種子は帰ってきて如来蔵に記憶されるからである。心行は如実に如来蔵に持ち帰られるのである。ちょうど水流が途中でどんな場所を通過し、何を洗い流し、何を持ち帰るかは自然にそうなるのと同じである。如来蔵も選択をしない。自然に記憶し、そしてポンプが自然に持ち帰ったもの、それが金剛砂であれ、砂土であれ、すべて収蔵し、そして再び出力するのである。

——生如法師の開示
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