衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年06月18日    月曜日     第2 回の開示 合計652回の開示

証果と明心の短期速成講座の危険性

菩薩道の修行の道は長く、一時的な眼前の遅速を気にする必要はなく、目標の達成は三大阿僧祇劫にあり、ただ三大阿僧祇劫の時に最も速やかに仏道を成就することが、優勝者となるのです。ちょうど一万メートルの長距離走のように、賢者は百メートル以内の前後を気にせず、体力に基づいて長期的な計画を立て、優先的にゴールに到達することを根本とし、他のことは重要ではありません。

人は遠慮なければ必ず近き憂いあり。目標が長遠であればあるほど、智慧は広大となり、胸襟は広く豊かとなり、度量は雄大となり、志は高く遠く、脚力は強く、信心は十分になります。一時的な遅速や勝敗を気にしてはなりません。

今は末法の時代であり、菩薩種性の人はそれほど多くなく、優れた法器もそれほど多くないため、絶対に速成で証果や明心を目指す速成クラスを開催してはなりません。ここ二年ほどで私はいくつかの現象を目にし、ある程度目覚めました。速成クラスは人を害することが甚だしく、そこから出てくるのは偽物ばかりで、仏教の正常で秩序ある発展を危害しています。

多くの人が本当の修行と証悟の入り口を見つけられないのは正常な現象であり、その修行と証悟の因縁がまだ熟していないことを示しています。彼らが右往左往する中で、次第に自らを成熟させ、善根と福徳、そして禅定と智慧を増長させ、菩薩の条件を整え、菩薩の心性と徳行を養い、少なくとも人としての徳行と修養、人としての人格を備えなければなりません。そうでなければ、どうして菩薩となって衆生を導くことができましょうか。衆生を泥沼に導き入れ、自らも気づかず、朱に交われば赤くなるように、衆生は知らず知らずのうちに悪習に染まってしまうのに、それを菩薩行だと思い込むのは、その結果が恐ろしいことです。

私は悟りを求める人々の中に、人柄が極めて劣悪で、人としての根本ができておらず、善人になろうとも思わない人々がいることに気づきました。もしそうした人々が皆、修行と証悟の入り口を見つけ、最終的な結果を知り、いわゆる名ばかりの菩薩となったなら、今後仏教はどのような姿に発展するのでしょうか。考えると本当に恐ろしいことです。

速く明心し悟りを開き証果を得ようと焦る人ほど、悟るべきではありません。なぜなら、そうした焦る心には不純な目的があり、菩薩の心性がまだ足りず、無所求の心性が養われていないからです。そうした人は一旦悟った後、かえって求める心が強くなり、名声や利養を求める心を抑えられなくなります。ですから修行に関しては、私は水が流れて自然に溝ができるように、自然に任せることを提唱します。因縁が熟した人は、抑えようとしても抑えられず、必ず自然に悟り、自然に菩薩となるのです。

速成で証果や明心を目指すと、福徳の蓄積が不足し、業障がまだ消えず、煩悩がまだ降伏していないため、一旦証果や明心に近づくと、業障が現れて障りとなり、煩悩が眼前に現れて妨げとなり、障りが重なり、菩提心や道心を退失しやすく、その後の修行に力が入らなくなります。ですから因縁が熟していない場合は、絶対に導き始めてはならず、絶対に青い瓜を摘んではならず、人を害し己を害し仏教を害することを避けるべきです。

仏教で速成クラスを開くなら、心性速成クラスや道心速成クラス、人間性速成クラス、禅定速成クラスだけを開くべきであり、絶対に証果速成クラスや明心速成クラスを開いてはなりません。もし心性が速成できず、人間性が速成できず、道心が速成できず、禅定が速成できないなら、証果や明心がどうして速成できましょうか。

これほど多くの人々が私に嘆きを訴えます。修行の入り口が見つからず、どうやって参禅し明心するのか分からず、どうやって観行して証果を得るのか分からないと。今思えば、それで正しいのです。分からないのは正常であり、入り口がないのは正常なのです。千辛万苦の試練を経て時が過ぎ、因縁が熟せば、何もかも知り理解できるようになるのです。

——生如法師の開示
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