問:もし諸相が相にあらざることを見るならば、すなわち如来を見る。もしある人がこのように理解し、自らが感知する一切(あたかもテレビ画面に映し出された内容のごとく)に対して、時々刻々、至る所でその全てが如来蔵(あたかもテレビ画面のごとく)における材質と機能の幻化であることを意識し続けるならば、その人は如来蔵を証得したのであり、そういうことでしょうか。
答:以上の内容は全て意識心による最も粗雑な理解に過ぎず、実際に証得したものではなく、現量観察によって得られたものではありません。誰が言おうと、それは理解の域を出ません。なぜなら、それらの内容は経典に説かれ、他人もそう語っているからです。他人が語り出したものは、個人の実証には属しません。個人が実証するには、如来蔵が五蘊の身に具体的にどのような作用を及ぼしているかを証得しなければならず、それは参禅を経て、具体的に工夫を凝らして参究する必要があります。少しの工夫も用いず、自らの感覚と推測に頼ってわずかばかり理解したとしても、実際に如来蔵が具体的にどのような作用を及ぼしているかは全く分からず、全ての無明が依然として存在しています。
一切法がまるでテレビ画面の中のもののようだと思うのは、親証ではなく、証得とは言えません。一切法が全て如来蔵によって創造され、我々が皆一真法界に生きていると思うのは、開悟とは言えません。仏の一言で衆生がそう容易く開悟するならば、仏法はあまりにも容易すぎます。三歳の子供がこの言葉を聞いても粗雑ながら少し理解できただけで開悟したとすれば、成仏がいかに容易であるか、無量劫また無量劫の生死業障は何ら障げきにならず、あれほどの無明も何でもないことになります。実際には、そのような容易なことは存在しません。
参禅を経ず、調査と証拠集めを行わず、資料や証拠を収集したことがなければ、意根はいかにしてこれらの説法が真理であると確認し、信受することができましょうか。真の証悟は、第八識が作用する細かな内容、具体的に如何にして万法を出生し、衆生の五蘊十八界を出生するかを知らなければなりません。これらを全て理解し、知り、菩薩の六波羅蜜を全て修め出さなければなりません。ある一部分の内容を理解したからといって、それらの部分が仏あるいは他の人から語られたものであり、どれほど理解し展開しても自らが思惟参究して証知したものではなく、現量観察がなければ、心の底から確信できず、非常に心もとないのです。
このような理解から証悟までの距離は、一年かかるかもしれず、三十年かかるかもしれず、百年かかるかもしれず、一万年かかるかもしれず、あるいは一つの無量劫を要するかもしれません。それは全く予測がつきません。意識が理解したものは役に立たず、消え去るときはあっという間に消え去ります。細部は意識すら知らず証しておらず、ましてや意根においてなおさらです。肝心な時には依然として意根が主人となり、意根が確認していなければ無明は残ったままです。意識の全ての理解は臨終の時にはまるで児戯のように泡と消え、後世の趣向を決定することはできません。
心の中で自らに「なぜか」と問いかけ続け、全ての「なぜ」を解き明かすことができれば、証悟に少しは近づくかもしれませんが、それでも証悟であるとは限りません。仏法はこのように神聖であり、推し量ることはできないのです。
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