悟りを得る前においても、仏法は意根に薫習されなければならない。意根が善法によって薫習されれば変化が生じ、身心も転変する。ましてや悟りの瞬間においてはなおさらであり、それが三昧力と呼ばれる所以である。仏法を学ぶ過程で意根に薫習が及ばず、ただ意識による知識の吸収と理解に留まるならば、意根は依然として変わらず、身心世界の転換も起こらない。そうなれば我見を断じ悟りを得ることは遥かに遠のく。たとえ悟り前に意根を薫習しても、一定の境地に達しなければ我見を断ずる悟りは得られない。故に身心の転換、身口意の行いの転換、我見を断ずることと明心見性は、全て意根が相当程度に薫染されることを必要とする。意根が僅かでも変化すればよいというものではない。脱胎換骨には意根を徹底的に転換し、意根の煩悩染汚心を消滅させ、欲界の五品思惑煩悩を断除しなければならない。このように業種が第八識に蔵されれば、来世において三悪道に堕ちず、人天善道に往生することが保証されるのである。なお意識による悟りという頑固な態度を抱き、意根による悟りの観念に抗い続ける者もいるが、そのような強情さは最早救い難いと言わざるを得ない。
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