ある人が「人が死ぬとき、自然に第八識が善処に導く」と言います。しかし第八識が自然に善道へ導くことができるなら、なぜ全ての衆生は無始劫以来、三悪道にいる時間が三善道にいる時間よりもはるかに長いのでしょうか。第八識は何を根拠に衆生の意根を善道へ導くのでしょうか。善法を薫習すれば第八識が善処へ導くと言う人もいます。しかし善法を薫習した人は非常に多く、仏法を薫習した人も非常に多く、正しい法理を薫習した人も非常に多い中で、臨命終時に三悪道に入らないことを保証され、第八識に導かれて三善道に入る人が果たしてどれほどいるでしょうか。
第八識が意根を善道へ導く根拠は、第八識に蓄えられた善業の種子によってのみ可能です。しかし第八識には無始劫以来に造った悪業の種子が無数に存在し、まだ現行していない業種が残っています。第八識は結局どの業種を根拠に意根の転生を導くのでしょうか。この問題は非常に重要かつ核心的なものです。仏が経典で保証されている衆生が死後三悪道に入らない条件は、第一に阿含経で説かれる我見と三縛結を断つこと、第二に大乗経典で説かれる明心見性、第三に阿弥陀経で説かれる臨終時に一心不乱の念仏三昧の修行、第四に観無量寿経で説かれる十六観のうち第三観以上を成就すること及び九品往生の各因縁条件、第五にその他の浄土経典で説かれる往生条件、第六に仏法を学ばない者が死後天界に生まれるために必要な善業種の具足です。
これらの条件は、単に善法や仏法を薫習しただけで三悪道を免れて善道に生まれるのではなく、この一期の生命において造った善業の勢力と悪業の勢力の大小、無始劫以前の重大な悪業種子が消滅したかどうか、あるいは重大な悪業の種子が現行する因縁が具足しているかどうか、臨命終時における善業種子の力と悪業種子の力の強弱によって、強者が先に牽引し、第八識は強力な業によって衆生を牽引することを示しています。死後の趣向は善業力と悪業力の較量によって決定され、第八識が決定するのではありません。第八識はただ業種の力に随順するだけで、衆生の趣向を導く意志を持っていないのです。
無数の人々は正法と善法を縁として薫習しながらも、貪瞋痴の煩悩が依然として具足し、少しも断除も降伏もしていません。これは明らかに煩悩業の勢力が依然強く、臨命終時には当然ながら煩悩悪業に牽引されて三悪道へ趣向するのです。無数の人々は善法を薫習しながらも、その過程で仏法僧三宝を誹謗する悪業を造ってしまいます。この悪業は極めて大きく、全ての善業の薫習も三宝誹謗の悪業の力に敵いません。よって臨命終時、第八識は当然ながら誹謗業の種子の勢力に随って意根を三悪道へ導きます。たとえ現世で大きな悪業を造らなくても、無始劫以前の悪業の縁が熟し、今世の善法薫習による善業の力が十分に強くなく縁が熟さず、悪業の縁を変えるに足りない場合、第八識は強大な悪業種子の縁によって意根を三悪道へ導くのです。
現世で善法を薫習する力が十分でなく劣弱で、ただ意識が善法を理解しただけで意根まで薫習が及ばず、意根が善法を証得していない場合、それらが身口意の行いの原動力とならず、五陰身の一切法に変化が生じないか、あるいは微小な変化しかなく煩悩悪業に対抗できないなら、このような薫習は力を持たず、種子として第八識に蓄積されないか、わずかに蓄積されるだけでは何の作用も起こせず、煩悩業の勢力に対抗できず、後世の三悪道の運命を変えることはできません。五陰身の一切の身口意の行いは全て種子として第八識に蓄積されます。無数の人々は善法を薫習しながらも、身口意の行いに変化がなく、依然として貪瞋痴の煩悩悪業を造り続けるなら、第八識に蓄積されるのは貪瞋痴の煩悩業であり、臨命終時には煩悩業の力が非常に強く、意根を牽引して三悪道へ入らせ、善道に生まれることはできないのです。
五陰身の身口意の行いを主宰して造作するのは誰でしょうか。もちろん意根が主宰して造作します。もし衆生が現世で薫習した善法が意根の心に落ちず、意根が仏法を証得していなければ、意根は善ではなく、主宰して善業を造作せず、善業の種子は第八識心体の中に蓄積されません。そうなれば第八識がどうして意根を善道へ転生させることができるでしょうか。要約すれば、どのような人であれ薫習した善法が意根を薫染して成就させず、意根の煩悩染汚性を変えず、意根の心行を改めないなら、意根は依然として主宰して染汚業を造作し、染汚業は第八識心体に種子として蓄積され、後世の悪業果報を生じさせ、この人は命終して善道へ往くことができないのです。
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