衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月29日    月曜日     第4開示 合計3245開示

因縁果報もまた幻化した不実なるものである

衆生の因縁果報はどこに現れるのでしょうか。五蘊の身に現れ、色・受・想・行・識に現れ、十八界に現れるのです。五蘊の身は幻化であり、十八界は幻化であり、宇宙器世界は幻化であり、一切の人・事・物・理はすべて幻化です。因縁果報が依存する本体がすでに幻化であるならば、それ自体もまた幻化で実体がなく、因縁によって生じ因縁によって滅びます。種子は五蘊の身の造作によって落謝するもので、五蘊の身が虚妄で無常であるため、因縁果報もまた虚妄で無常となります。したがって、一切の因果もまた幻化であり、如来蔵を除く他のすべては幻化されたものであり、如来蔵が業種と様々な因縁に基づいて幻化したものであって、実法ではありません。例えば、衆生が造作する善悪の業と受ける善悪の報いは、すべてこれらの世間の虚妄法の上で造作され受報するのであり、五蘊世間が虚妄である以上、これらの業行と果報も当然虚妄なのです。 

例えば、今世でこの世間において国王となったり、天に昇って天主となったりすることは、国王や天主の五蘊の身は幻化であり、宮殿や玉座は幻化であり、生存する宇宙器世間は幻化であり、錦衣玉食は幻化であり、すべての宰官大臣や側近の侍従もすべて幻化であり、国王や天主の一切は幻化なのです。また、例えば人を殺すことや殺されることといったこれらの果報は、すべて五蘊が造作し承受するものであり、これらの悪報はどこから来るのでしょうか。すべて如来蔵が業種と因縁に基づいて幻化したものであり、五蘊の身に現れているのです。善悪の業報を受けて苦楽などの覚受が生じますが、これらの受もまた如来蔵が幻化したものであり、すべて生滅変異して無常です。そうであるならば、一切の因縁果報は我ではなく、我の所有するものでもない。これを無我無一切法と言うのです。 

一切法がすべて幻化で実体がないことを知るならば、攀縁を減らし、造作を減らし、用心を減らし、できるだけ心を空にすべきです。なぜなら、あなたがどのように造作しようと、それは空であり無意味であり、すべて生滅法であって、得るものも失うものもないからです。どうして心を休め、省みないことがありましょうか。ある者は言います、すべて空であるなら、どうして多く造作しないのか、と。私が悪業を造っても空であるなら、悪業を造ることを忌憚する必要はない、と。しかし、もし悪業を造作すれば、心は空ではなくなります。心が空でない状態で悪報を受ける時、それは極めて苦恼であり、その時には苦受も空じることができず、生きるよりも死ぬ方がましなほどの苦しみを味わうことになります。誰もそうなりたいとは思いません。したがって、心が空であれば悪業を造らず、一切の操作を減らせば心は次第に清浄になり、次第に空になっていくのです。これによって初めて苦を了え解脱を得ることができるのです。

——生如法師の開示
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