(十一)原文:此中欲者。謂五妙欲。見謂六十二見。如梵網經廣説。戒謂遠離惡戒。禁謂狗牛等禁。如諸離係及婆羅門播輸鉢多。般利伐羅勺迦等異類外道。受持種種露形拔髮披烏鹿皮。持髻塗灰。執三杖剪鬚髮等無義苦行。我語謂内身。依之説我故。
釈:ここで言う欲とは五妙欲を指す。色声香味触に染着することから生じる財・色・名・食・睡への貪欲をいう。見とは六十二見を指し、梵網経に広く説かれる如し。戒とは仏の制定した戒、悪戒を遠離する戒をいう。禁とは犬・牛などの習性を守ることを指し、離系外道やブラフマンのパシュパタ、パリヴラージャカなどの異類外道が受持する種々の無意味な苦行、例えば裸形・抜髪・黒鹿の皮をまとう・髻に灰を塗る・三杖を執り鬚髪を断つなどの無益な苦行をいう。我語とは五蘊の内身に依って我と執着することを指す。
原文:有余師説。我見我慢名為我語。云何此二。獨名我語。由此二種。説有我故。我非有故。説名我語。如契經説。苾芻當知。愚昧無聞諸異生類。隨假言説。起於我執。於中實無我及我所。於前四種取。謂欲貪。故薄伽梵諸經中釋。云何為取。所謂欲貪。由取為縁。積集種種。招後有業。説名為有。
釈:別の師匠は我見と我慢を我語と説く。何故この二つが特に我語と呼ばれるか。この二種が「我あり」と説く故に、我が存在しないにも拘わらず「我語」と称される。契経に説かれる如く「比丘らよ、知るべきである。愚昧で教えを聞かぬ異生類は仮の言説に随って我執を生じるが、実際には我も我所も存在しない」と。前四種の取とは欲貪を指す。故に薄伽梵は諸経で「取とは何か。即ち欲貪である。取を縁として種々の業を積集し、後有を招くことを有と説く」と釈された。
原文:如世尊告阿難陀言。招後有業。説名為有。有為縁故。識相續流。趣未來生。如前道理。具足五蘊。説名為生。以生為縁。便有老死。其相差別。廣説如經。如是純言。顯唯有行。無我我所。大苦蘊言。顯苦積集。無初無後。集言為顯。諸苦蘊生。毘婆沙宗如前已説。
釈:世尊がアーナンダに告げられた如く「後有を招く業を有と説く。有を縁として識の相続流転が未来生に趣く」と。先に説かれた道理の如く、五蘊が具足することを生と説き、生を縁として老死が生じる。これらの相の差別は経典に広く説かれる通りである。このような純粋な言葉は「行のみ存在し我も我所もない」ことを顕わし、「大苦蘊」の言葉は「苦が積集され初めも終わりもない」ことを示す。「集」とは諸苦蘊が生じることを顕わす。この問題は毘婆沙宗が先に述べた通りである。
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