道とは何か
問:道とは何ですか。禅師答:食事をし、眠ることです。問:私も食事をし、眠りますが、道とどう違うのですか。禅師答:あなたは食事をする時にまともに食べずに様々なことを求め、眠る時にまともに眠らずにあれこれと文句をつける。これは色・声・香・味・触を貪り求めることであり、道を修めることではない。
生活の中で道を修めるとは、祖師方のように修めるのであって、煩悩具足の者が説くように、生活に溶け込み色声香味触と一体化し、貪瞋痴の煩悩に教化され、結局五欲の束縛から抜け出せないようなものではない。煩悩具足の者が説法すると、至るところ煩悩から離れず、自分に煩悩があるため、人に煩悩からの出離や解脱を教えるのではなく、他人が自分と同じ煩悩を持つことを望む。彼には煩悩を解脱した経験がなく、煩悩から出離した経緯がないため、正しく他者を導いて煩悩の深淵から脱出させることはできず、また煩悩を深淵とも思わず、貪着して享受しているからである。
説法者の中には、意図的か無意識かに世俗の煩悩を吹き込む者がいる。例えば、如何に頂天立地し、人並み外れて出世するか、処世術として如何に如才なく弁舌を弄し、自らを称え他を貶めるか、男女の欲求や瞋恚の争いを如何に容認するかなどを説き、衆生に様々な貪取を誘導し、果ては議論の話術や詭弁まで教授する。仏教の中でこのような世俗的煩悩事を営めば、最終的には三悪道へと導かれ、無量の苦を受け、出離の機会を得ることは難しい。真に道を修めようと思うなら、古の修道者である禅師や祖師方の風範に多く学ぶべきである。彼らの日常生活における清心寡欲さを学び、彼らの質朴で偽りのない性格、名利に淡泊な心、高遠な志、ひたすら道に励む修道者の心を学ぶべきである。
現代人は教えられずとも元来煩悩が重く、加えて社会生活の環境や習俗に染まり、心がひどく汚染されている。日々周囲に奔走して求め、六根が六塵(色声香味触法)に対し、一法も求めないものはなく、一法も取らないものはない。五蓋の覆いが極めて重い。もしこの生涯で真に突破を得たいなら、早く覚るべきである。時処を選ばず自心の煩悩の在り処を観察し、求める心が生じる度に「私は奔走して求めている、私は周囲に求めている」と心に念じるべきである。周囲に求めないとはどのような姿か。昔の修行者のように:山中で道を修め、日に一度の食事で少欲知足し、心に常に安楽を持つ姿である。これ以外は全て求める性質を帯びている。
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