衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月25日    木曜日     第2 回の開示 合計3229回の開示

道とは何ですか

道とは何か 問う:道とは何か。禅師は答えた:食事をし、眠ることである。問う:私も食事をし眠るが、道と何が違うのか。禅師は答えた:あなたは食事の時にまともに食べず、百の欲求を探し、眠る時にまともに眠らず、様々に文句をつける。これは色・声・香・味・触への貪りであって、道を修めることではない。

生活の中で道を修めるとは、祖師方のように修めるのであって、煩悩に満ちた人々が説くような「生活に溶け込み、色声香味触と一体化し、貪瞋痴の煩悩に教化され」、結局五欲の束縛から抜け出せないようなものではない。煩悩に満ちた者が法を説けば、至る所に煩悩がつきまとい、自分に煩悩があるからこそ他人を煩悩から解脱させるのではなく、他人が自分と同じ煩悩を持つことを望む。彼には煩悩から解脱した経験がなく、煩悩を離れた経緯がないため、正しく他人を煩悩の深淵から導くことができず、また煩悩を深淵とも思わない。貪りに耽り享受するが故である。

一部の説法者は意図せずとも世俗の煩悩を吹き込み、例えば如何に頂天立地し、如何に人より抜きん出るか、処世術として如何に如才なく弁舌を磨き、自らを称え他を貶め、男女の欲求や瞋恚の争いを容認し、衆生に様々な貪取を誘導し、果ては弁論の話術や詭弁まで教授する。仏教の中でこのような世俗的煩悩を醸せば、結局は三悪道へと導かれ、無量の苦を受け、解脱の機会を得難い。真に道を修めたいなら、古の修道者である禅師や祖師方の風範に学ぶべきである。彼らの日常生活における清心寡欲さ、質朴で偽りなく、名利を淡泊とし、志高くただひたすら道を求める道人の心に学ぶべきである。

現代人は教えられずとも元来煩悩が重く、加えて社会生活環境や習俗の影響で心が強く汚染され、日々あまねく求め続け、六根が六塵(色声香味触法)に対し、一法も求めず一法も取らぬものはなく、五蓋の覆いが極めて重い。もしこの生涯で真に突破を成し遂げたいなら、早く覚るべきである。時処所を問わず自心の煩悩の在り処を観照し、求める心が生じる度に「私は求めている、あまねく求めている」と念じるべきだ。求めないとはどういうものか――昔の修行者の如く、山中で道を修め、日に一食で少欲知足、心常に安楽なり。これ以外は全て求める性質を有する。

——生如法師の開示
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