生活の中で修道するというのは、祖師たちのように修めることであり、ある種の煩悩具足の人たちが言うように、生活の中に溶け込み、色・声・香・味・触と打成一片となり、貪・瞋・癡の煩悩に度される(煩悩に導かれる)ことで、その結果、五欲の羈絆から跳び出せなくなるようなことではない。煩悩具足の人が法を語ると、至る所で煩悩を離れず、自分に煩悩があるのに、人を煩悩から出離させ、煩悩から解脱させる教え方ができず、むしろ他人が自分と同じように煩悩の中にあることを望む。彼には煩悩から解脱した経験がなく、煩悩から出離した経歴がないので、法に如いて他人を一歩一歩煩悩の深淵から脱離させるように教導することは不可能であり、しかも貪着して享受するがゆえに、煩悩を深淵だとも思っていない。
中には、法を語る者が意識的にも無意識的にも、世俗の煩悩をいくらか吹き込むことがある。たとえば、いかに頂天立地し、人に抜きん出るか、人との付き合いにおいていかに円滑に巧みに弁し、自らを讃え他を毀るか、男女の欲求や瞋恚の争いをいかに容認するかなどを吹き込み、衆生を誘導してさまざまな貪取に向かわせ、さらには弁論の話術の技巧や詭弁まで教える。仏教の中でこうした世俗の煩悩事をやると、最終的には三悪道へと導き趣向させることになり、苦を受けること量り知れず、出離の時期を得ることは難しい。だからこそ、本当に修道したいと思うなら、古の修道人である禅師や祖師たちの風範を多く学び、彼らの日常生活における清心寡欲を学び、彼らの質直にして偽りなく、名利に淡泊で、志気高遠にして一心に道を求める道人の心を学ぶべきである。
現代人は教えられなくとも、もともと煩悩が重く、さらに社会の生活環境や習俗に薫染されて、心地の染汚は甚だしく、毎日あまねく馳め求めており、六根が六塵である色・声・香・味・触・法に対して、求めない法は一つもなく、取らない法は一つもなく、五蓋の遮障は極めて重い。もし今生において本当に一つの突破を得たいと思うなら、早く覚悟すべきであり、時時処処に反観して自心の煩悩の所在を観じ、何かを求めようとするたびごとに心に念ずべきである。すなわち「私は馳め求めている、私はあまねく馳め求めている」と。あまねく馳め求めないとはどのようなものか。それは昔の修行者の姿のようである。すなわち山中にあって修道し、日中一食し、少欲知足で、心は常に安楽である。これ以外はすべて馳求の性質を有している。
12
+1