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日常法話

2021年03月25日    木曜日     第1開示 合計3228開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(十一)原文:此中欲者。謂五妙欲。見謂六十二見。如梵網經廣説。戒謂遠離惡戒。禁謂狗牛等禁。如諸離繫及婆羅門播輸鉢多。般利伐羅勺迦等異類外道。受持種種露形拔髮披烏鹿皮。持髻塗灰。執三杖剪鬚髮等無義苦行。我語謂內身。依之説我故。

釈:ここでいう欲とは、五妙欲を指します。色・声・香・味・触に染着することによって引き起こされる財・色・名・食・睡への貪欲です。見とは六十二見を指し、梵網経に詳しく説かれている通りです。戒とは仏の制定した戒め、悪戒を遠離する戒を指します。禁とは犬・牛・魚などの習性に似た戒めを守ることを指します。例えば、離系や婆羅門の播輸鉢多(Pārśva)、般利伐羅勺迦(Pūraṇa Kāśyapa)などの異類の外道が受持する種々の無意味な苦行、すなわち形体を露出する、鬚髪を抜く、鹿の皮を身にまとう、髪に草灰を塗る、三本の杖を執る、鬚髪を剪るなどの何の意味もない苦行のことです。我語とは、五蘊の内身に依って、これを我として執することを指します。

原文:有余師説。我見我慢名爲我語。云何此二。獨名我語。由此二種。説有我故。我非有故。説名我語。如契經説。苾芻當知。愚昧無聞諸異生類。隨假言説。起於我執。於中實無我及我所。於前四種取。謂欲貪。故薄伽梵諸經中釋。云何爲取。所謂欲貪。由取爲緣。積集種種。招後有業。説名爲有。

釈:別の大師はこう説いています。我見と我慢を我語と呼ぶのです。なぜ我見と我慢だけが我語と呼ばれるのか。この二つには「我」があると説くからです。しかし実際には「我」は存在しないため、「我語」(我についての虚説)と名づけられるのです。ちょうど契経で説かれているように、「比丘よ、知るべきである。愚昧で教えを聞かない諸々の異生の類は、仮の言説に随って我執を起こす。その中には実際に我も我所も存在しない」と。前の四種(色・受・想・行)に対する執着を欲貪と呼びます。それ故に薄伽梵(ブッダ)は諸経の中でこう解説されています。「何が取なのか。いわゆる欲貪である」。取を縁として、種々の業を積集し、後世を招く業を「有」と名づけます。

原文:如世尊告阿難陀言。招後有業。説名爲有。有爲緣故。識相續流。趣未來生。如前道理。具足五蘊。説名爲生。以生爲緣。便有老死。其相差別。廣説如經。如是純言。顯唯有行。無我我所。大苦蘊言。顯苦積集。無初無後。集言爲顯。諸苦蘊生。毘婆沙宗如前已説。

釈:世尊が阿難陀(アーナンダ)に告げられたように、「後世を招く業を有と名づける」と。有を縁として、識は相続して流転し、未来世の生に向かいます。先に述べた道理と同じく、五蘊が具足することを「生」と名づけます。生を縁として、老死が存在します。その相の差別は、経典に広く説かれている通りです。このような「純」(ただ)という言葉は、行(縁起の法)のみが存在し、我も我所もないことを示しています。「大苦蘊」という言葉は、苦が積集し、初めもなく終わりもないことを示しています。「集」という言葉は、諸々の苦蘊が生じることを示すためです。この問題については、毘婆沙宗が前にすでに説いています。

——生如法師の開示
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