万法の虚妄を看破し、解脱の大道に向かう
原文:仏は大王に言われた。譬えばある人が、睡眠の中で、多くの宝媛と共に相携え持つ。この人が目覚めた後、夢の中で受けた妙なる触れを憶念する。これは実在するか。王は言う、そうではないと。
釈:仏は言われた:大王、譬えばある人が睡眠の中で多くの美女と共に楽しみを共にし、この人が目覚めた後も、なお夢の中で感じた妙なる触覚を絶えず思い出している。この事は実在しますか?浄飯王は答えた:実在する事ではない。
この人は夢を見終えて目覚めた後も、なお夢の中の事を実在のものと見なし、絶えず夢の中に浸り、思い出は続き、貪り執着して離れない。この人は智慧がなく、夢が実在しないものであることを知らず、実在のものではなく、不実在の仮相に惑わされるべきではなく、虚妄の覚受と感覚を追求すべきではなく、このように惑い転倒して、仮を真と見なすべきではない。夢の中の覚受は全て虚妄である。ましてや目覚めた後に夢の中の事を思い返せば、その感受は更に虚妄である。心の中で思い返す事は存在するか?既に存在しない。そうでなければ思い出とは呼ばれない。例えば、私がさっき食べたものがとても香ばしかったと思い返すが、その食べ物は既に食べ終わっており、香りは今はもうなく、存在しない。どう思い返そうとも、実際の作用はなく、全く益もない。消えたものは再び戻らない。そして夢は過ぎ去った現実の境界よりも更に虚妄であり、思い返すことは心の貪着と執着を示すだけで、虚妄の想像の中に無益に浸り、貴重な時間と労力を無駄に費やすだけである。
また例えば、私たちがある人の言った言葉を思い返す時、その言葉は今も私たちの耳元にあるか?耳元には音声はなく、過ぎ去った音声、言われた言葉は、今にとっては存在せず、何の作用もない。もし再びそれらの音声に執着し、執着し続けるならば、それは幻の上に更に幻を重ねるようなものである。音声が存在したその瞬間ですら虚妄である。ましてや既に消え去ったものは、更に虚妄で実在しない。過ぎ去った六境の境界は、もしまだ作用があると言うならば、それは実際には心が生み出した虚妄の分別と思惟想像であり、心が再び虚妄の感受と執着の情緒を生み出しているに過ぎない。実際にはもはや作用はなく、過ぎ去ったものは過ぎ去ったのである。執着して離れないことは、ただ煩悩を増すだけである。衆生は日常生活の中で、六境の万法に対する感受を全て実在のように感じている。しかしそれらの感受は本当に実在するか?全て実在しない。まるで空中の花や幻影のようである。
衆生は無始劫以来このようであり、生々世世において実在しない虚ろで掴みどころのないものを追求し、虚妄の五蘊の世界を実在と見なし、妄想は絶えず、ただ苦しみを増すだけである。諸仏は衆生の愚鈍さと苦悩を見て、慈しみの心を起こし、世間に出でて真相を宣説し、群蒙を化導し、愚暗の朽ちた家を離れさせ、解脱の大道に向かわせるのである。
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