衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月24日    水曜日     第3 回の開示 合計3227回の開示

父子合集経講話(一六八)

万法の虚妄なるを看破し、解脱の大道に向かう

原文:仏は王に仰せになった。「譬えば人が睡眠中に、多くの宝媛と共に歓楽を交わすが如し。この人目覚めた後、夢の中で受けた妙なる触覚を追憶する。これ実在するか」王「否なり」と答えし。

釈:仏は説かれた「大王よ、譬えばある者が眠りの夢の中で多くの美女と歓楽を交わし、目覚めた後もなお夢中で感じた妙なる触覚を追憶し続ける。これは実在するか」浄飯王「実在せぬ」と答えし。

この者は夢から覚めた後も、夢中の出来事を真実と見做し、夢境に浸り続け、追憶を絶やさず、貪愛を捨てず。この者は智慧なく、夢境が実有ならず真実でないことを知らず、実在せぬ仮相に執着し、虚妄の覚受と感覚を追い求めるべきでない。夢中の覚受は全て虚妄なり、まして覚醒後に夢中の事を回想する感受は更に虚妄なり。心中に回想する事象は存在するか?既に存在せず、さもなくば回想とは称さぬ。例えば先程の飲食の美味しさを回想するも、既に飲食は過ぎ去り、香味は今や存在せず、如何に追想しても実益なく、消滅したものは再び戻らぬ。而して夢境は過ぎ去った現実の境界より更に虚妄なり、回想はただ心の貪着を証す無益な虚妄の空想に浸り、貴重な時と精力を徒費するのみ。

また例えば我々が某の言葉を回想する時、その言葉は今なお耳辺に在るか?耳辺に音声なく、過ぎ去った音声と言葉は現在において存在せず、何らの作用もなし。若し再びそれらの音声に執着し、計較執着を絶やさざれば、幻の上に更に幻を重ぬるなり。音声が存在する当体すら虚妄なり、まして消滅した後は更に虚妄不実なり。過ぎ去った六塵の境界、若し尚作用ありとすれば、それは実に心中に生じた虚妄の分別と思惟空想に過ぎず、心中に再び虚妄の感受と執着情緒を生ずるのみ、実際には作用を失えり。過ぎ去れば即ち過ぎ去り、執着不捨は徒らに煩悩を増すのみ。衆生は日常生活において六塵万法の感受を真実と感じるも、それらの感受は真に実在するか?皆実在せず、空華幻影の如し。

衆生は無始劫来この如く、生滅を重ねつつ実在せぬ虚無縹渺のものを追求し、虚妄なる五陰世界を真実と見做し、妄想絶えず、徒らに苦を増す。諸仏は衆生の愚鈍と苦悩を観て慈悲を生じ、世間に出でて真相を宣説し、群蒙を化導し、愚暗の朽宅を離れしめ、解脱の大道に向かわしむ。

——生如法師の開示
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