(十)原文:如何にして無明が行を縁づくるか。広く説けば生が老死を縁づくるに至る。我今経義に符順して略説せん。謂く、諸の凡夫たちは縁生の法を知らずして唯行のみと妄りに我見及び我慢執を起こし、自ら楽を受くるため苦楽ならざるが故に、身等の各三種の業を造作す。謂く、当来の楽を受くべきが故に諸の福業を造り、当来の楽及び苦楽ならざるを受くべきが故に不動業を造り、現世の楽を受くべきが故に非福業を造る。是れを無明縁行と名づく。引業の力により、識の相続する流れは焔の行くが如く、彼彼の趣に赴き、中有に憑附し、所生に馳せ赴きて生有の身を結ぶ。是れを行縁識と名づく。
釈:無明が如何にして行を縁づくるか。行が如何にして識を縁づくるか。広く説けば生が如何にして老死を縁づくるか。今経義に適う略説をなす。無明縁行とは、凡夫が縁生法が唯行より生ずることを知らず、虚妄に我見我慢を起こし、楽受や不苦不楽受を得んが為に身口意の三業を造作すること。来世の楽受を得んが為に福業を造り、来世の楽受・不苦不楽受を得んが為に不動業を造り、現世の楽受を得んが為に非福業を造る。これらを無明を縁として生じた行という。この業力により識が相続し、炎の如く六道に赴き、中有を依りどころとして所生の地に至り、生有の五蘊身を結ぶ。これを行縁識という。
ここに衆生が無漏果を得ず、心に無漏なき時、造作する業行は全て無明を縁として生じ、福行も非福行も善悪の行も全て無明行なり。無明行ある故に無明の業力あり、後世を駆りて六道輪廻を止まらしめず。故に無明ある限り、全ての業は無明業となり、無明の果を結ぶ。
原文:此の釈を為せば、善く契経に順ず。識支を分別すれば六識に通じ、識を先と為す故に、此の趣中に名色生じ、五蘊を具足し展転相続して一期の生を遍くす。大因縁に於て縁起等を弁ずる諸経は皆かくの如く説くが故に。是の如き名色漸く成熟する時、眼等の根を具足して六処と説く。次に境と合すれば便ち識生ず。三和する故に楽等に順ずる触有り、此に依りて便ち楽等の三受生ず。
釈:このように解釈すれば経典の趣旨に適う。識支は六識に通じ、六識が先行する故に、相応する六道に名色が生じ五蘊を具え、一期の生命全体にわたって相続する。諸経典は大因縁説においてこの縁起法を説く。名色が成熟すると眼根等を具え六処となる。六境と和合して六識が生じ、根・境・識の三和合により楽受等の触が生じ、これより三受が生起する。
原文:此の三受より三愛を引生す。謂く、苦に迫らるるが故に楽受に対し欲愛を発生し、或は楽受及び不苦不楽受に対し色愛を発生し、或は唯不苦不楽受に対し無色愛を発生す。欣求する受愛より欲等の取を起こす。
釈:三受より三愛が生ず。苦受に迫られ楽受に欲愛を生じ、楽受・不苦不楽受に色愛を生じ、不苦不楽受のみに無色愛を生ず。この欣求する愛より欲界等への執取が起こる。
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