衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年03月24日    水曜日     第2 回の開示 合計3226回の開示

阿毘達磨倶舎論 第九巻

(十)原文:如何にして無明が縁となって行を生ずるか。広説すれば乃至生が縁となって老死を生ずるに至る。我今やや略して示し、経義に順じたものとする。謂わく、諸の愚夫は縁生の法において唯行であることを知らず、妄りに我見及び我慢執を起こす。自ら楽を受け、苦楽にあらざるがために、身等の各三種の業を作す。謂わく、自らのために当来の楽を受けるが故に諸の福業を作し、当来の楽及び苦楽にあらざるを受けるが故に不動業を作し、現世の楽を受けるが故に非福業を作す。是れを名づけて無明縁行と為す。引業の力に由り、識の相続する流れは、炎の燃え行くが如く、彼の彼の趣に往き、中有に憑附し、生ずる所に馳せ赴き、生有の身を結ぶ。是れを名づけて行縁識と為す。 

釈:無明が縁となって行を生じるとは何か。行が縁となって識を生じるとは何か。広く説けば生が縁となって老死を生ずるに至る。我今経義に順じやや略して解するに、無明縁行とは諸の愚かな凡夫が縁生の法が唯行によって引き起こされることを知らず、虚妄に我見と我慢我執を生じ、自ら楽受及び不苦不楽受を得んがために、身口意の三種の業行を作すことである。当来世に現れる楽受を得んがために諸の福業を作し、当来の楽受及び不苦不楽受を得んがために不動業を作し、現世の楽受を得んがために非福業を作す。これらの行は無明を縁として生じた行であり、この業行が業力を引き起こし、六識が相続して流転し、炎の連なる如く六道の種々の趣に生じ、中有身に依り憑き、速やかに生ずる所に赴き、三界の五蘊身を結ぶ。これを行縁識と名付ける。ここに衆生が無漏果を得ず、心に無漏なき時、造る所の業行は全て無明を縁として生じたものであり、全ては無明の行である。福行であれ非福行であれ、善行であれ悪行であれ、全て無明行である。無明の行あるが故に無明の業力有り、後世の六道輪転を駆りて止まぬ。故に無明ある限り、全ての業は無明業であり、結ぶは無明果である。 

原文:若し此の解釈をなせば、善く契経に順ず。識支を分別すれば六識に通じ、識を先とするが故に、此の趣中に名色生じ、五蘊を具足し、展転相続して一期の生に遍くする。大因縁に於て縁起等を弁ずる諸経は皆此の如き説有り。是の如き名色、漸く成熟する時、眼等の根を具すれば、六処と説く。次に境と合すれば、便ち識生ずること有り。三和するが故に、楽等に順ずる触有り。此に依りて便ち楽等の三受を生ず。 

釈:此の如く解釈すれば、善く契経の義に随順する。分別する識支は六識に通じ、六識を先とする故に、相応する六道に於て名色が生じ、五蘊を具足し、五蘊が展転相続して一期の生命全体に存在する。大因縁に於て縁起法を弁ずるに、各経典は皆此の如く説く。名色が漸く成熟する時、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を具し、意根を加えて六入処と名付く。次に六塵の境界と和合すれば、六識が生ずる。根・境・識の三和する故に、楽受に順ずる触が生じ、此の触に依って楽受等の三受が生ず。 

原文:此の三受より、三愛を引き生ず。謂わく、苦に逼せらるるにより、楽受に於て欲愛を発生し、或は楽受及び不苦不楽受に於て色愛を発生し、或は唯不苦不楽受に於て無色愛を発生す。欣受の愛より、欲等の取を起こす。 

釈:三種の受より、三種の愛を引き起こす。即ち苦受の逼迫により、楽受によって欲界の愛を生じ、或は楽受及び不苦不楽受によって色界の愛を生じ、或は唯不苦不楽受によって無色界の愛を生ずる。欣楽の受より愛を生じ、欲界・色界・無色界の執取を起こす。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

いったいどのようにして如来蔵に依止したと言えるのでしょうか

次の記事 次の記事

父子合集経講話(一六八)

ページのトップへ戻る