衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月24日    水曜日     第1 回の開示 合計3225回の開示

いったいどのようにして如来蔵に依止したと言えるのでしょうか

現在多くの人々が如来蔵に依止することを説いていますが、やや風の噂を捕らえるような傾向があります。私たちが何かに依り頼むためには、まずその存在を確認し、理解し、その価値と依頼可能性を判断し、如何なる条件の下で如何に依り頼むかを明らかにしなければなりません。これら全てを理解し思考観察した上で、実際の行動に移り、依止の目的を達成し、安全と利益を得るのです。如来蔵に依止する場合も同様です。例えるなら大樹に寄りかかって休息する場合、まず正確にその大樹を見つけ、その状態を観察・計量し、如何にして樹下に至るか、最も適切で快適な位置を判断し、風雨や日差しを防げる場所を選び、座布団を敷いて寄りかかる必要があります。如来蔵への依止もこの理にかなっています。 

如来蔵に依止するには、まずそれを証得し、現前に如実に観察できなければなりません。如来蔵の大まかな体性を遍く理解し、誤謬がなくなって初めて依り頼むことができ、身心世界が転換を始めます。観察と照合を重ねるにつれ、五蘊の身心世界を空と観じ、遂には世間の法も空じ、心性が如来蔵に漸近同化します。心性が真に転換し、貪瞋痴の煩悩汚染が除去された時、初めて心性が如来蔵に依止して転換したと言え、初步的な転依の成就となります。この時すでに識を智に転じ、初地以上の大菩薩に相当します。 もし内心に貪瞋痴の煩悩が残り、汚染が甚だしく智慧も低劣で欠落が多いなら、心は如来蔵に依止せず、如来蔵から遠く離れ、身心に利益もなく、転依とは言えません。身も心も転じず、五毒を具えた従前の身心であれば、如何なる場合も転依ではなく、依然として無明煩悩に依り、如来蔵に依止せず、転依の成就とは程遠いのです。 

如来蔵を証得した後、五蘊十八界の運行の中でその働きを観察し続けるには、最少でも別相智後得智、後期には道種智が必要です。これらがなければ如来蔵の運作方式と法則を如実に観察できず、推測や想像に留まり、真実の体性を理解できません。悟後、如来蔵が五蘊に及ぼす作用を観察する度に身心に感応が生じ、清浄と染汙、有心と無心の対比から慚愧心・自責心・向往心が生起します。時を経て如来蔵の心性に影響熏染され、煩悩を断じ識を智に転じれば、初步的な転依が成就します。完全な転依は即ち仏です。 

如来蔵の清浄性を観察するには、五陰と六根の働きにおいて観ます。例えば色を見る時、如来蔵が如何に清浄で心念なく、邪思もないかを観じ、その榜样に倣い私心雑念・貪欲・争奪心を除去します。声を聞く時、如来蔵が如何に如如不動で声に転ぜられないかを観じ、誉辱の言葉に動心しないよう努めます。 

香を嗅ぎ味を嘗め触れ法を思う時、あらゆる境界において如来蔵の清浄性・無私性・無我性・衆生への奉仕を観察します。これにより七識心が熏染され、境界到来の度に心が漸次清浄化し、無私無我となります。こうして徐々に転依が進み、心行が変化し、染汙が消滅し、人法二空の大智慧が生起します。第六識に妙観察智、第七識に平等性智が具われば、初步的な転依成就と言えます。未悟の者が安易に転依を語るべきではなく、悟りを得たばかりの者も煩悩多く智慧浅く、如来蔵の片鱗も備わっていないのです。

——生如法師の開示
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