今、多くの人々が如来蔵に依止することを語っていますが、どれもやや風を捕まえるような曖昧さがあります。なぜなら、私たちが何かに依り頼むためには、まずその存在を確認し、理解し、そのものが依り頼む価値があるか、依頼可能か、どう依頼するか、どのような条件が必要か、依頼した後にどうなるかを判断しなければなりません。これら全てを理解し考察した上で、実際の行動を起こし、依り頼む目的を達成し、安全と利益を得るのです。如来蔵に依止する場合も同様です。例えば大樹の下で休み、木陰で涼むためには、まず正確にその大樹を見つけ、観察・計量し、どうやって木の下にたどり着くか、どこに寄りかかるのが適切で快適か、風雨や日差しを遮れる場所はどこかを判断し、座布団を敷いて寄りかかる必要があります。如来蔵への依止もこの理屈と同じです。
如来蔵に依止するためには、まずそれを証得し、現前に如実に観察できなければなりません。如来蔵のおおよその体性を遍く観察し、誤りなく理解した上で初めて依り頼むことができ、身心世界が変容を始めます。観察と照合を重ねるうちに、五蘊の身心世界が空であることが次第に見えてきて、やがて全世界の法も空じられ、心性が如来蔵に近づき同化していきます。心性が真に転換し、貪瞋痴の煩悩汚染が除去された時、初めて私たちの心性が如来蔵に依止して転換したと言え、初步的な転依の成功と見做されます。この時すでに識が智に転じ、初地以上の大菩薩に相当します。 もし心にまだ貪瞋痴の煩悩が残り、汚染が重く、智慧も低劣で欠落が甚だしければ、心は如来蔵に依止しておらず、如来蔵からも遠く離れているため、身心に何らの利益も得られません。この状態は転依とは言えず、身も心も転じておらず、以前のままの五毒具足の身心であるため、如何なる場合でも転依ではなく、依然として無明煩悩に依り、如来蔵に依止しておらず、ましてや初步的な転依の成功など到底語れません。
如来蔵を証得した後、五蘊十八界の運行の中で絶えず如来蔵の作動を観察するには、少なくとも別相智と後得智が必要で、後期には道種智も必要です。そうでなければ推論と推測に過ぎず、如来蔵の作動方式と法則を如実に観察することはできません。証悟後、毎回五蘊における如来蔵の作動を観察する度に、自らの身心に触発が生じます。清浄と染汚、有心と無心を対比することで、慚愧心・自責心・向往心が生起し、時が経つにつれて如来蔵の心性に影響され、煩悩が断じられ、識が智に転じて初めて転依が成功します。完全徹底的な転依が即ち仏です。
如来蔵を証得した後、その清浄性をどの方面から観察すべきか。五陰の作動過程と六根の作動過程において観察します。例えば色を見る時、如来蔵が如何に清浄で心念や思想活動がなく、ましてや邪な心思がないかを観察します。私たちも如来蔵を手本とし、私心雑念や利己的思想、貪欲心・争奪心・占有欲などを除去すべきです。声を聞く時、如来蔵が如何に清浄で、いかなる音声に触れても如如不動で転じられないかを観察します。そうすれば他人の言葉が称賛であれ侮辱であれ、如来蔵を手本とし、極力心を動かさないようにすべきです。
香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思う時、あらゆる境界に直面する際、如来蔵が如何に清浄で無私無我に衆生へ奉仕しているかを観察します。こうした観察を重ねると、七識心が薫染され、いかなる境界が到来しても自心が徐々に清浄化し、無私無我になっていきます。これにより次第に転依が進み、心行が変化し、染汚が除去され、煩悩が断尽されると、人空法空の大智慧が生起し、識性が智性に転じます。第六識が妙観察智を具え、第七識が平等性智を具えた時、初めて転依成功と言えます。それ以前は未だ学習段階です。未証悟の者が安易に転依を語るべきではありません。転依から程遠いからです。仮に証悟直後であっても、煩悩が多く智慧が浅い状態で、どうして如来蔵の片鱗などありえましょうか。
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