衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月06日    土曜日     第1 回の開示 合計881回の開示

《瑜伽師地論》巻51

原文:「また前に説かれたように、末那識は恒に阿頼耶識とともに転じ、断じられるまでは継続する。常に四種の煩悩(サトリヤ見、我慢、我愛、無明)と一時相応して俱生任運することを知るべきである。これら四煩悩は、定地にあろうと不定地にあろうと、常に善法などと矛盾せずに恒行する覆無記性であることを知るべきである。」

解釈:この『瑜伽師地論』の原文について、多くの者が誤解している。彼らは意根にこの四煩悩(我見・我愛・我慢・無明)のみが存在すると解釈し、四つの煩悩心所法があると考えがちである。しかし実際の原文はそのような意味ではない。仮にそのような意味であったとしても、無明という一つの煩悩がすべての煩悩を含んでおり、凡夫の意根はすでに全ての煩悩を具えているのである。

ここで示されているのは、意根がこの四煩悩と刹那も離れることなく恒常的にともに作用しているということであり、「恒行」とは絶え間なく作用し続けることを意味する。意根にはまた恒常的でない煩悩心所法も存在し、これらは常に意根とともに作用するものではなく、時々顕現するものである。この四煩悩以外のものは全て非恒常的煩悩である。したがって意根の煩悩心所は、恒常現行する部分と時折随伴する部分の二つに分かれる。

意根には無明という煩悩があり、無明は一切の煩悩を含む。すべての煩悩は意根の煩悩に属し、意根の煩悩が意識の煩悩を引き起こして一切の煩悩業を造作する。煩悩を断じるには意根の煩悩を断ずることが究竟的なのであり、もし意根に特定の煩悩がなければ、修行における障害は減少する。

意識に煩悩があるか否かは重要ではない。なぜなら意識は断滅法であり、意識が滅すれば煩悩も消滅し、ただ意根が残るからである。意根に煩悩がなければ衆生は生死輪廻を脱するが、意根に煩悩があれば生死は免れない。なぜ無数の人々が意識に固執するのかといえば、彼らが意識を理解するのみで意根を知らず、ましてや意根の心行を観察できないからである。このため世間には意識論が氾濫し、衆生は誤導されている。

この四煩悩は凡夫位において一切時に恒行現行し、断たれることがない。他の煩悩は時々現れる。我見を断じた後も他の三煩悩は恒行し続ける。四果に至って初めて四煩悩が消滅し、心が清浄となる(大乗法における無明を除く)。ただし習気は残存するが、もはや恒行しない。六根本煩悩は樹幹、二十随煩悩は枝葉であり、樹幹が倒れれば枝葉はやがて枯れ果てる。

意根の無明煩悩は一切の煩悩を含む。この中で瞋恚は恒行せず、時々現れる。もし瞋心が恒行すれば、自他ともに耐え難く、まもなく色身を破壊し生命を縮める。ここでは意根に瞋恚があるか否かは明記されていないが、意根に瞋恚が存在するのは確実である。もしなければ瞋恚を断ずる修行は不要となるが、実際はそうではない。

『瑜伽師地論』の表現は極めて簡潔であり、真意を把握するには文語の素養と修行の証量が求められる。真実の法とは事実に基づくものであり、事実こそが全ての虚偽を打破し真理を顕現させる。仏の説法でさえ自ら観行して検証すべきである。仏法は全て実証されて初めて仏果を得る。ただ仏語を暗誦するだけでは智慧を得られない。究極的には仏をも依り所とせず、自ら全ての真相を実証しなければならない。

仏が娑婆世界で説いた法は爪先の土ほどであり、未説の法は大地の土ほどある。一切の法を修学し実証し、真相を知る必要がある。この真相は人に依って得られるものではなく、必ず実証を要する。

この『瑜伽師地論』の一節には重要な意味が含まれている。文中で四煩悩(我見・我愛・我慢・無明)は定中・不定中を問わず恒行するとされる。これは意根が煩悩心所法と善十一心所法を同時に具え、両者が矛盾しないことを示す。他の菩薩論で「意根は善心所と相応せず」とする説があるが、弥勒菩薩の『瑜伽師地論』を基準とすべきである。

——生如法師の開示
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