原文:「また、前に説かれたように、末那識は阿頼耶識と恒に俱に転じて断じられるまでは、常に俱生任運の四種の煩悩と一時に相応することを知るべきである。すなわち、サトリヤ見(我見)、我慢、我愛、および無明である。この四つの煩悩は、定地にあっても不定地にあっても、常に現行して善法などと相違せず、有覆無記性であることを知るべきである。」
解釈:この一節は『瑜伽師地論』の原文であるが、多くの人々がこの箇所を誤解している。彼らは皆、意根にはこの四つの煩悩——我見・我愛・我慢・無明——のみがある、つまり四つの煩悩心所法があると考えている。実際の原文はそのような意味ではない。たとえその意味であったとしても、無明という一つの煩悩はあらゆる煩悩を含んでおり、凡夫の意根はすでに全ての煩悩を具えていることになる。
ここでの意味は、意根がこの四つの煩悩と時々刻々恒常的に共に運行しており、刹那も分離しないということである。「恒行」とは恒常的に運行して断滅しないことを意味し、意根にはさらに恒常的に運行しない煩悩心所法も存在する。それらは時々刻々意根と共に運行するのではなく、刹那ごとに存在するわけではなく、時として現行し、時として現行しない。この四種の煩悩以外は全て恒常的に運行しない煩悩である。したがって、意根の煩悩心所は二つの部分に分けられる。一つは恒常的に現行して存在する部分、もう一つは時折意根に伴って現行する部分である。
意根には無明という煩悩があり、無明は一切の煩悩を含んでいる。全ての煩悩は意根の煩悩に属し、意根の煩悩によって引き起こされて意識の煩悩となり、一切の煩悩業を造作する。煩悩を断ずるには、意根の煩悩を断除してこそ究竟的な煩悩断ちと言える。もし意根に特定の煩悩がなければ、煩悩を断つ必要もなく、修行における煩わしさや障りも少なくなる。
意識に煩悩があるかないかは取るに足らない問題である。なぜなら、意識は断滅法であり、意識が一たび滅すれば煩悩も即座に消失し、ただ意根だけが残るからである。意根に煩悩さえなければ、衆生は生死輪廻をすることはない。もし意根に煩悩があれば、生死輪廻は必ず避けられない。なぜ無数の人々が意識にことさら大きな関心を寄せるのか? それは、これらの人々がただ意識について少し理解できるだけで、意根を全く理解しておらず、ましてや意根の心の行い(心行)を観察することができないからである。そのため、至る所に意識論が溢れ、衆生は哀れなほどに誤導されている。
この四種の煩悩は凡夫の位においては一切時に恒行して現行し、断たれたことがない。他の煩悩は時々現れる。我見を断った後は、我見の煩悩はなくなるが、他の三種の煩悩は引き続き恒行する。四果(阿羅漢)を得た後は四種の煩悩が全て消失し、心は清浄となり、もはや恒常的に運行する煩悩はなくなる(大乗法における無明を除く)。ただし、習気はなお残っており、ただ恒行しないだけである。六つの根本煩悩は大木の幹であり、二十の随煩悩は枝葉である。幹が倒れれば、枝葉はまもなく枯れ果て、跡形もなく消え去る。
意根の無明煩悩は、一切の煩悩を含んでいる。この中で瞋(いかり)の煩悩は恒行できず、時々現れるものである。もし瞋心が恒行するならば、その結果は想像を絶するものとなり、自分自身であれ他人であれ耐えられず、瞋毒はまもなく色身(肉体)を壊し、生命は長くは続かず、周囲の一切の人々は際限ない苦を受けて、楽を受けることはなくなる。ここでは特に意根に瞋煩悩があるかどうかは述べていないが、意根には絶対に瞋煩悩がある。もし瞋煩悩がなければ、我々は瞋煩悩を断除するために修行する必要はない。意識に瞋煩悩があってもそれは問題ではない。意識は常に断滅を繰り返すものであり、滅してしまえば煩悩はなくなる。ただ意根に瞋がなければ極めて良いのである。しかし、事実はそうではない。
『瑜伽師地論』の言葉は非常に簡潔であり、その意味を十分に理解することは容易ではない。文語の素養と修行上の証量(悟りの境地)の両方が結びついて初めて可能である。そして真に法に依るということは、事実に基づくことを意味する。事実である限り、いずれは事実に合わない言説を全て打ち破り、真理の力を顕現させることができる。たとえ仏陀が説かれた法であっても、自ら実際に観行してその通りかどうかを確かめなければならない。仏陀が説かれた一切の法は、最終的には我々が全て実証して初めて、仏となることができる。実証して証明しなければ、相応する智慧を得ることはできず、仏の言葉を暗誦するだけでは問題は解決しない。仏陀が説かれたことは、我々自身が証得したことを代表するものではない。修行の最後には、全ての事実の真相に依らなければならず、仏陀すらも依り所としない。仏陀が説かれた法も自ら実証し、全てを証得して初めて、完全に修行が成就したと言えるのである。
仏陀がこの娑婆世界で説かれた法は、爪の先ほどの土に相当するほどに過ぎず、説かれなかった法は大地の土のように多い。一切の法を我々は修学し、実証し、事実の真相を知らなければならない。そしてこの事実の真相は、人に依って得られるものではなく、必ず実証しなければならない。
『瑜伽師地論』のこの一節にはさらに重要な意味がある。文中では、我見・我愛・我慢・無明の四種の煩悩は、定中にあっても定中になくても、恒行して常に運行していると述べられている。恒常的に運行しているにもかかわらず、善十一心所法(善心を構成する十一の心作用)に背かない。これは、意根には煩悩心所法があると同時に善心所法も存在し運行しており、両者は衝突しないという意味である。ここで『瑜伽師地論』は意根が善十一心所法と相応すると説いているが、ある菩薩の論では意根は善心所法と相応しないと説いており、二つの論は互いに矛盾する。もちろん、弥勒菩薩の『瑜伽師地論』を基準とすべきである。
3
+1