衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月06日    土曜日     第2 回の開示 合計882回の開示

禅定が具足した時にのみ機に応じて悟道できる

歴代の祖師は弟子たちに禅定を修めるよう教えてこられました。かつて寺院に設けられた禅堂は、学人が座禅して禅定を修め、参禅するための場所でした。唐宋時代の修行者たちは皆禅定を得ており、当時は経典が非常に貴重でめったに出会えず、仏教徒は座禅による禅定修習に専念せざるを得なかったため、彼らの定力は非常に優れていました。静中の定も動中の定も具足し、心が外縁に流されず常に定中にあるため、禅師が仏法の真実義を説示されると、速やかに悟りに入ることができ、また時と場所を選ばずに往生し、自らの修行に適した父母の家へ自在に転生できたのです。

かくも優れた定力を具足していたため、禅師が堂上で機に応じて説法されると、聴衆の中にはその場で悟りを開く者もありました。かつての仏教徒は昼夜を分かたず参禅し、仏法を思惟していたため、縁に触れるや即時に悟ることができました。当時の人々は多くの禅法知識や仏教理論を持たず、如来蔵真如心の体性についての教えを信受疑いなく受け入れ、ただ参禅して如来蔵を求めていたため、現代人よりも速やかに容易に悟ることができました。これは定慧を具足し、善根福徳も備わっていたからです。かつての禅師の説法は比較的晦渋で、直接的な表現を避ける傾向がありました。学人が戒定慧を具足していなければ、証悟することは極めて困難でした。現代のように仏法が明らかに説かれている状況とは異なり、当時は学人もなお道理を理解し得ない状況だったのです。

禅定は外道にも通じるもので、禅定があっても必ずしも道があるわけではありませんが、禅定がなければ決して道を得ることはできません。禅定を離れては、道業を成就することは不可能です。

定力のない者は心が粗雑で、深遠な仏法の理を究明することはできず、真に完全に我見を断じ心を明らかにすることは不可能です。よって参禅には極めて優れた定力が必要であり、参禅に先立ち必ず禅定を修めた上でなければなりません。

——生如法師の開示
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《瑜伽師地論》巻51

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