衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月12日    木曜日     第2 回の開示 合計733回の開示

隔陰の謎と修行証果

問:意根が我見を断ったのであれば、なぜ隔陰の謎が存在するのでしょうか。来世では再び我見を断つ必要がなく、そのまま無我の状態になるのではないでしょうか。

答:隔陰の謎とは、意識が新たに生じるものであり、前世の意識とは異なり、五陰身を隔てているため、迷いが生じ、前世の五陰に関する事柄を知ることができない状態を指します。一方、意根は生々世々を貫いて断絶せず、隔陰がないため迷うことなく、前世の人々の事柄や物理的現象を知ることができ、時には来世の人々の事柄や物理的現象も知ることがあります。ただし、衆生が一般的に認識するものは六識に依存して知るものであり、意根が知るものは六識を通じて表現されて初めて作用を及ぼします。

意根は言語や文字と相応しないため、自らの知見を表現することができません。六識は言語や文字と相応し、思考・分析・推論・判断が可能であるため、意根の多くの働きは意識(六識)を通じて実現されなければなりません。したがって、意根が何を知ろうとも、意識が必ずしもそれを認識するとは限りません。たとえ意根が極楽世界を理解し、前世のすべての事柄を知ったとしても、意識はそれを認識しない場合があります。

このため、重大な事態に直面した際、意根はさまざまな方法で意識に警鐘を鳴らし、意識にある程度の認識を持たせ、対応策を思考させる必要があります。例えば、周囲に鬼神が存在する場合、意識は感知できませんが、意根はそれを感知し、身根に作用して頭皮の痺れや全身の違和感を引き起こします。それによって意識は何かが起きていると感じ、状況を推測する可能性が生じます。

現世で初めて仏菩薩の姿を目にした際、意根が生々世々にわたって仏法を信じ念仏し学んできたため、仏菩薩に対する特別な感情(これを善根深厚と呼びます)が生じ、思わず涙を流し、激しく泣き出してしまうことがあります。しかし意識はその理由を理解できません。前世の親族と出会った場合も同様で、意識は認識しませんが、意根は認識するため、親近感と感動を覚えます。しかし意識はなぜそのような感動が生じ、特別な感情が湧くのか理解できないのです。

したがって、意根が現世で我見を断じると、来世の振る舞いは常人とは異なります。しかし意識は新たに生じるため隔陰の謎を帯び、前世で既に我見を断じたことや五陰が無我であることを知りません。このため仏法に接しても改めて五陰の無我を思考する必要があります。ただし意根が既に無我を証得し、五陰が無我であることを知っているため、意識が過度に思考観行する必要はなく、急速に五陰無我を証得します。これは初めて聖果を証得する者に比べ極めて迅速です。三果や四果の聖者たちは、一言を聞くだけで即座に聖果を証得し、特別に思考観行する必要がありません。意識による入念な思考を通じて意根を熏習させるという煩雑な過程を省略するため、証果が極めて迅速に達成されるのです。

——生如法師の開示
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