言語はただの指先であり、如来蔵の本体ではありません。いかに説こうとも、説く行為そのものが如来蔵ではなく指先なのです。言語は如来蔵を指し示すことができ、他者はその指に従って如来蔵を証得できます。私たちが一幅の絵に向き合う時、言語は自由に表現できますが、表現されたものはその絵そのものではありません。しかし他者は言語による描写を通じて、その絵を理解し、認識することができるのです。
したがって、他者が如来蔵を証得して言語で描写した後、自分が理解できたとしても、それは自らが証得したことを意味しません。自ら眼前に現前に観察した時のみ、言語で描写できるか否かに拘わらず、それは現量観察による如来蔵であり、如来蔵証悟に属します。よって言語は虚妄ではありますが有用であり、法を観るために不可欠な道具です。あらゆる妄法すらも一種の道具であり、全てに用途があります。様々な名相は月を指す指に等しく、全て道具であり、如来蔵に至る地図でもあり、いずれも有用です。ただ地図を誤って描いたり、指先が方向を間違えることが懸念されるのです。
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