瞋恚という煩悩は、無始の無明か有始の無明でしょうか。もし無始の無明であるならば、それは無始劫以前から存在し、如来蔵に内在し、意根に属する煩悩です。意識が生起した後、意根が直接意識を熏染し指導して、意識にも瞋恚の煩悩心所を持たせます。もし瞋恚の煩悩が有始の無明に属するならば、生命の中途から瞋恚が現れたことになりますが、ではいつから瞋恚の煩悩が生じたのでしょうか。何によって瞋恚が発生し、その起因は何でしょうか。仏典に基づくにせよ、現実の観察に基づくにせよ、瞋恚という煩悩に始まりがあったことを証明する証拠は見当たりません。始まりがないということは無始であり、無始であるならば意根に相応し、意識には相応しません。意識は後天的に意根の熏染と教唆を受けて初めて瞋恚の煩悩心所を持つのです。あらゆる人も生まれながらにして怒りを抱き、教えられる必要も後天的な学習も要しません。従って意根は無始劫以来ずっと瞋恚の煩悩心所を有しているのです。
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