仏が大念住経において受を観じる際、内受と外受の二種を説かれました。外受とは観察しやすい意識心の受、特に六塵の境界における意識の受を指します。内受とは深く隠れていて観察し難い意根の受を指します。大多数の者は意識と意根を区別できませんが、心の奥底の思想活動は、心が極めて細やかであれば感知・観察可能です。
仏が心を観ずることを説かれた時、心を観るとは内外の心の貪瞋痴の煩悩を観察し、内外の心の集中と散乱・広大と狭小・有上と無上・有定と無定・解脱と非解脱を観察することを指します。これは意根に貪瞋痴の煩悩があり、定と不定があり、解脱と非解脱があることを示しています。小乗経典からも、世尊が明言されていないものの、意根にこれらの心所法が存在することが証明されます。意根の法は大乗の弟子ですら理解・証得できず、ましてや小乗の弟子が意根の法を正しく深く理解し得ないため、世尊は意根の心所法を秘意をもって説かざるを得なかったのです。
疑惑の煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑いを断ずるには究竟まで断じなければなりません。まさに意根の疑惑を断ずることが三縛結を断ずることに他なりません。貪欲を断じ、意根の貪欲を断って初めて心が色界天人と相応し、色界天に生ずることができます。瞋恚を断つとは、意根の瞋恚を断じてこそ第三果の者となります。愚痴を断つとは、意根の愚痴無明を断じてこそ三界を出離できるのです。
小乗仏典は最も理解しやすいものですが、いったい誰が真に小乗の仏典を理解できましょうか。ましてや大乗経典を完全に理解し得る者などいるでしょうか。阿羅漢果を証した者でさえ、汝の意を完全に信ずることはできません。智慧が不足し、意が究竟していないため、完全に信じれば容易に誤りを生じるのです。
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