〈大念住経〉において、世尊が五取蘊を説かれた際、色受想行識の内法と外法についても言及されている。内色は色身を指し、外色は六塵を指す。内受想行行識は意根を指し、外受想行行識は意識を指す。
世尊が七覚分を説かれた時も、七覚分を内七覚分と外七覚分に分類された。択法覚分・精進覚分・喜覚分・軽安覚分・定覚分・捨覚分は、いずれも意識に属する外覚分と意根に属する内覚分に分けられる。内七覚分を修め成さない場合、小乗の果を得ることは不可能であり、我見を断ずることも叶わず、ましてや明心見性など論外である。三十七道品を成就せずしては、大小乗の果位について語る資格なく、身心の軽安が成就せず、禅定が成就せず、内心の捨受が存在しなければ、我見を断除することも、明心見性することもできない。これは仏法修証における厳格な基準であり、いかなる者もこれを超越することはできない。仮に誰かが証果や明心を主張しても、それは造花のような虚構の果実であり、観賞するだけの価値はあっても、空腹を満たす実質的価値はない。
世尊が七覚分について述べられた内容から考察すると、意根には択法覚分(法を択ぶ智慧)・精進覚分(真の精進)・喜覚分(意根は単に捨受に留まらない)・軽安覚分・定覚分(禅定と相応する)・捨覚分が具わっている。その後、心の働きが八正道に符合して初めて、小乗の証果を得る条件が具足し、我見を断じて初果を証することができる。そうでなければ、全ては偽りの果実に過ぎない。条件が具足せず、因縁が整わない状況で強引に導こうとしても、虚偽の結果しか得られない。
七覚分の中の択法覚分は、この境地に至れば弁別力が生じる。しかし自己の現状を超越し過ぎると再び択別能力を失うため、修行を継続しなければならない。択法覚分は絶えず増進させるべきもので、円満に具足するに至れば、一切の法を即座に正しく択別し、疑いを挟む余地がなくなるのである。
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