衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年08月28日    火曜日     第1 回の開示 合計802回の開示

意根の聡明さに頼っても業縁業報からは逃れられない

生まれながらに危険を回避する能力を有するのは、これ即ち意根の働きでございます。意識心は出生直後には全く理解しておらず、一生涯を通じて相応する環境に触れて学ばなければ、永遠に何事も理解することはありません。しかし意根には生来の生存本能が備わっており、意識の導きや影響を必要としないのでございます。

畜生の意根にも聡明な面がござい、生来の能力も少なくありません。彼らが初めて危険に遭遇した際の反応は、誰にも教わらずとも理解いたします。初めて地震に遭えば予感を持ち、方法を考えて避けることを知っております。これらは教わることなく生来備わった能力で、意根の聡明性によるものであり、他に理由はございません。

しかし意根が如何に聡明であろうとも、業縁を逃れることは叶わず、業報から免れることもできません。非想非非想天に生を受けて善報に浴する者でも、意根がこの境地に執着するや、命終して悪報が訪れれば三悪道に堕ちて苦しみを受けることになります。意根は微塵も主導権を持たず、回避する術もございません。

如何に意根が聡明な人でも、悪縁が現れれば死を免れることは叶わず、如何なる手段をもってしても回避できません。他人の目には完全に回避可能で、如何なる事故も防げるように見えても、業報の訪れた者には選択の余地など全くなく、考える機会さえ与えられずに生命は消え去るのでございます。

如何に意根が聡明な人でも、業種と福徳が欠乏しているが故に、極めて平易な法義すら理解できず、正しく解釈することも、理に適った思惟をすることも叶わず、誠に遺憾なことです。如何に意根が聡明で賢明な人でも、ひたすら高い地位や豊かな俸禄を追い求めながら、前世で福徳を修めなかったが故に、一切の善報が彼らを素通りし、一生苦しみながら不平を抱えて過ごすのでございます。

如何に意根が聡明で賢明な人でも、前世における仏法修学の期間が短かったが故に、一生懸命に仏法を修学し、精進を怠らなかったとしても、我見を断つという小乗の法すら真に理解し観行することは叶わず、ましてや証果を得るなど到底及ばないのでございます。

——生如法師の開示
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