問:楞神を用いて動中の定力を修めることは、確かに善巧方便ですが、多くの人は楞神を持続させるのが難しいと感じています。弟子の体得では、楞神を入り口として使用し、言語文字が心中に現れないように守り、それを観照し保持しながら徐々に訓練することで、楞神を維持する時間が長くなります。これはまさに「話頭を観る」ことでは?
答:この状態は言語文字を離れた状態です。最初は短時間しか持続しませんが、不断の訓練によって時間を延長でき、定力が深まると、参究が容易になります。
この状態は「話頭を観る」に似ているだけでなく、実は「話頭を参究する」そのものです。参究には意根の思量作用が働き、意識の分析は少なくなり、あるいは分析せず、意根の思量に協力させ、思量の任務を意根に移します。そうして時節因縁が相応する時、意根と意識が同時に法を証得します。このようにしない場合、意識が思惟分析した後で意根に渡しても、意根は必ずしも承認せず、短時間では絶対に承認しません。これは意根の現量了別ではないため、意識も全ての証拠を提示せず、完全な現量了別でもないからです。従って意根はこれに相応せず、法を証得できません。
意根は智慧が強くなく意識よりはるかに劣りますが、主導識であり、一切の法は意根が決定権を持ちます。一家の主のようなもので、他の家族より智慧は劣るものの、家のことは全てこの人が決めます。この人に事柄を承認させるには、説得力ある理由や証拠で納得させ、理解させた上で決定させる必要があります。最善の方法は、本人に直接事柄を理解させ、現場に臨ませ、この目で見させることです。事実を直視すれば即座に信じ、爽やかに選択・決定し承認するでしょう。
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