ある外道が仏と論争し、一つの命題を立てた。「我は一切の受を受けない」。仏は問われた。「その『一切の受を受けない』という受を、汝は受けているか」。外道は返答に窮した。帰路につき思量するに「如何なる弁舌を弄しても敗北は必定。仏は勝者なり、我は帰依すべし」。遂に仏のもとへ戻り剃髪出家し、仏法を学ぶこととなった。
或る者が「我は相を取って分別せず」と主張する。問うがよい。「その言葉こそ相を取った分別ではあるまいか。『我は相を取って分別せず』というこの言葉を、汝は分別していないか」。相手は言葉を左右に交わすのみ。敗北は明らかなるに、勇気をもって認めようとせぬは、外道の誠実さに及ばない。
或る者が「我は本来仏なり」と称する。問うがよい。「いつの時にか供卓に坐して世人の礼拝供養を受けたことがあるか。いつの日にか供卓より降り、何の因縁にか下り来たって、かくまで零落するに至ったか」。
今生より無始劫を遡るも、汝はかつて一日たりとも仏となったことなし。無始劫のまた無始劫以前より、汝の無明は毫も破れず、常に生死の業障凡夫として六道に輪廻し、純大苦聚と共に在りて断絶したことなし。故に結論すべし「汝は本来仏にあらず」。円覚経に曰く「金鉱より精錬された黄金は再び不純物と混ざりて鉱石に戻ることなし。成仏の後は無明滅尽し、再び衆生に戻ることなし」。成仏の依りて立つ本心は本来仏と称し得れど、汝の五陰七識は衆生たり、仏にあらず。仏を頼みながら生死業障の衆生たらんは、河辺に坐しながら渇きに苦しむが如く、その責めは誰に帰すべきか。
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