問:意根が言語文字に相応しないのであれば、如何にして意根は言語文字の意味を知るのでしょうか。
答:意根が文字言語に相応しないとは、意根が自らの思想見解を文字言語で表現できないという意味であり、文字言語を理解できないわけではありません。意根は全局を統括する主導識であるが故に、六識を指揮調達する権能を有しており、自ら話すことも文字で表現することもできませんが、意識に話させ、意識に文字表現させることができます。多くの成し得ない事柄も六識を動員して補助完成させることができます。例えば大統領は精力に限界があり分身の術を持たず、国家の大局を掌握するのみで、市場調査や統計分析などの具体的事務に携わることはできませんが、配下を任命してこれらの仕事を完成させることができます。意根もまた全局を統括し、具体的な事柄を自ら処理することはできず、五俱意識や独頭意識を用いて細々とした事務を処理し、意根は報告を聴取すれば足ります。報告を聴取する過程において、思心所・慧心所・勝解心所を用いて判断と択択を下し、その後指令を発して六識に命じ、指示に従って問題を解決させます。
意根は唖者に譬えられ、話すことはできなくとも人の話を理解できます。第八識も同様に、話すことはできず言語文字に通じませんが、独特の了別方式を有し、七識とは異なる特殊な情報を了別します。意根の思は意識の思に劣りません。もし大統領が時間と精力を割いて専ら市場調査に取り組めば、部下よりも優れた成果を上げ得たかもしれませんが、ただ時間がなかっただけです。意根がもし六識に代われば、六識を凌ぐ可能性がありますが、ただ現在は精力が足りないだけです。故に禅定を修し、修し、再び修する必要があるのです。これこそ意根に時間と精力を割かせ、専注に専注を重ねることで、大智慧が湧現する所以です。
意根を一つの識として、或いは一人の人間として捉えれば、意根の体性と心所法を理解できます。意識と六識は意根に代わって事を為す存在です。もし意根の智慧が十分であれば、六識の為すこと全てが明々白々となりますが、智慧が不足し勝解力も強くなければ、誤解が生じたり六識の行いを理解できず、六識の所為が明らかでなくなります。もし意識が表現を不得手とし、或いは表現が不明瞭であれば、意根もまた充分に理解できず、意識の心思を了知することができません。
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