衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年03月13日    土曜日     第1 回の開示 合計3180回の開示

大乗の学び手が陥りがちな過ち

大乗を修める者の中には、基礎修行を軽視し、根本的な阿含経の解脱道を疎かにし、大乗と小乗を断絶させ、これを截然と区別し、相互の関連性を認めず、仏法を分断する現象が甚だしい。中学校の課程を学ぶ者が自らを高尚と見做し、小学校の課程を軽んじるが如く、小学校の課程を修めずして卒業し中学校に進学できない道理を悟らず、基礎がなければ中学校の課程についていけず、中学も卒業できないのと同じである。

大乗を学ぶこれらの人々は三十七道品や八正道などを蔑視し、全てを小乗の修行者が修める法と見做し、必要不可欠と認めず、直接第八識の修証に飛びつく。戒定なきが故に、十年二十年あるいはそれ以上修めても身心に少しの変化も現れず、真実の利益を得られないまま、仏法に馴れきった者如く滔々と語り、その学識は科挙の状元に匹敵する。しかし得た理論は空中楼閣の如く、理は高空にあり、人は地に匍匐し、二者は交わらない。これではどうして理に順って道を得られようか。高遠を好む結果、いずれの法も成就できず、徒らに時を費やし、命終には修証なきが故に業風に漂流し、自主を失う。

我々は皆静かに心を落ち着け、理性的に考えるべきである。大乗の学人が七覚支を具えるべきではないのか。択法覚支なきは盲人が象を撫でるが如く、喜覚支なきは所学が心に入らぬ証左である。心に入らねば喜び生ぜず、心に喜びなきは身軽安せず、身軽安せねば心定まらず、心定まらねば空じず、いずくんぞ智慧を得んや。大乗の学人が四正勤を修めぬのか。悪を断たず善を増さず、心変わらぬは依然として業縛の凡夫である。一品の煩悩も断たぬ者が、どうして初果向に進みえようか。初果なきに、いかに大乗の明心を期せん。

大乗の学人は八正道を修めぬのか。正見なきに何の道を修めん。正思惟なきにいかに禅を参ぜん。正語なきにいかにして心を守り五戒を保たん。正精進なきは道に背く。正念なきにいかに心を正さん。心正しからずんばいかに道に入らん。正定なきに正慧あるべからず。身心ともに正しきのみが正道に入る。故に三十七道品を修めぬ者の修行は未だ門を入らず、大小乗いずれにも属さぬ。今の世に真の修道者に遇うは極めて難く、人心は浮つき、近道を好み短期の利益を追う。衆生の前世の根が浅く福徳欠けるに加え、伝法者の扇動もあり、このような状況を生じた。改善なきならば、仏教に人材出ずることはない。

——生如法師の開示
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