外道たちは四禅八定を修め、さまざまな程度の思惑煩悩を降伏・断除しましたが、四聖諦の理を観行する智慧だけが不足しており、見道の条件を満たす状態にありました。俗に言う「万事整って東風を待つのみ」という状況です。この東風とは見道の因縁を指し、一旦その因縁が現れれば直ちに見道できるもので、その因縁とは仏陀が四聖諦の理を説くことに他なりません。初果の条件を具備すれば初果を証得し、二果の条件を具備すれば二果を証得し、三果の条件を具備すれば三果を証得し、四果の条件を具備すれば四果を証得するのです。故に仏の説法を聞く者それぞれが証する果位は異なり、その差は見道の条件の相違にあります。
見道は七つ目の餡餅を食べるようなものです。外道たちは既に六つの餡餅を食べ終え、七分目から八分目の満腹状態で、仏陀が四聖諦の理を解説するのを聞いて七つ目の餡餅を食べ、一気に満腹に至るのです。前の六つの餡餅は基礎であり、胃の下地を作り、更に一つの餡餅を加えることで胃を満たすのです。
他人の最終結果だけを見るのではなく、その修道の辛苦の過程と注ぎ込んだ汗の量を見るべきです。もし彼らが膨大な代償を払わず、精勤して修めた四禅八定がなければ、六つの餡餅という基礎がなく、更に六つの餡餅を与えられても恐らく満腹して見道することはできないでしょう。仏と弟子の問答の間に、弟子たちが瞬時に見道したという話がありますが、それは数分の出来事で非常に容易く、それほどの辛苦や煩わしさはなかったと言う人もいます。しかし、この数分間の見道の功徳は、仏弟子たちの無量の善根福徳が集積した結果であり、それぞれがどれほどの時間をかけてあの六つの餡餅を食べ、どれほどの辛苦を味わい、前世と今世でどれほどの代償を払ったかを理解すべきです。
多くの人が競技場で一度の試合で金メダルを獲得する選手を羨み、国際的な金メダルや国家の金メダルを見て、彼らがいかに幸運であるかと感じますが、長年にわたる努力や流した汗と涙、犠牲にした休息時間、費やした体力の代償、さらには生命と健康の代償、受けた数々の屈辱を全く見ようとしません。それらすべてを経て初めて競技場で一挙に金メダルを勝ち取るのです。世間も出世間も、そんなに容易いことがあるでしょうか?果を証することが白菜を食べるように簡単だなどと。無量劫の生死流転、山のように積み重なり絡み合う悪業が、数分や数時間でどれほどの無量劫の生死業障を破り、三悪道の業を滅除できるでしょうか?そんな都合の良いことがあるはずがありません。もしそうなら、どうして無辺無際の生死衆生が存在し、無辺無際の仏がいないのでしょうか?
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