『阿毘達磨倶舎論』第二十三巻原文:修惑を断ずるに殊有りを具するによりて、三向を立てる。謂く彼の二聖、若し先時に於いて未だ世道を以て修断の惑を断ぜざれば、具縛と名づく。
釈:修行解脱道の者は、修行過程において断ずべき煩悩惑の差別が甚だ大きい故に、煩悩惑業を断除する者を三つの果向(初果向・二果向・三果四果向)として建立する。頓根の信行人と利根の法行人という二種の聖者、もし先に世間道の善法において修道所断の煩悩惑を断じていない場合、この者は一切の煩悩を具足する凡夫である。
この意味は、修道は凡夫より開始するものであり、凡夫も相応の煩悩惑を断除すべきことを示す。凡夫衆生は様々な修道過程を経なければならず、最初は必ず世間法を修め、世間法において悪を断ち善を修める。修行の内容は四正勤であり、四正勤が未充足であれば煩悩惑を断除できず、即ち結縛を具足する凡夫である。凡夫は見道前に主に三十七道品を修め、三十七道品には七覚分と八正道が含まれる。七覚分中の定覚分が具足すれば、欲界の中下品煩悩を降伏・断除する。
八正道中の正定が具足すれば、欲界の下品煩悩も降伏・断除される。三十七道品を具足修すれば戒定慧が円満し、見道の条件が整うことで因縁に遇い法眼浄を得て初果を証する。これらの修道条件を具足せず因縁も整わなければ、見道は不可能である。この修行段階を飛び越えて見道・初果証得を説く者は、誤った見道解釈による大妄語に過ぎない。
倶舎論原文:或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断ぜり。此の位に至るに名けて初果向と為す。初果に趣くが故なり。初果と謂うは即ち預流果なり。此れ一切の沙門果の中に於いて必ず初めに得るが故なり。
釈:解脱道を修める者の中には、先に欲界第一品から第五品の煩悩惑を断除した者がおり、この段階を初果向と称する。初果(預流果)へ趣向する故に初果向と名付けられ、間もなく初果を証得する。初果は一切出家沙門果中最も初めに証得される果位である。
初果向は欲界五品煩悩惑を断除して初果を証得する。即ち凡夫位の初果向において欲界五品煩悩惑を断除する必要がある。凡夫が如何にして五品煩悩惑を断除できるか。前述の如く、凡夫は修道過程において三十七道品を修め、悪を断ち善を修める。善を修めれば悪を断じ、悪を断ずることは即ち欲界五品煩悩を断除することである。もし善のみを修め欲界未到地定が無いか、或いは未到地定が不十分であれば五品惑を断除できず、初果向とは成り得ない。未到地定の修行は七覚分中の定覚分、即ち八正道中の正定である。欲界未到地定が不足すれば正定は具足せず、八正道の修道も具足せず、正道を説くべくもない。
故に、初果・二果の見道に禅定を必要とせず未到地定も不要、或いは定を修めずに証果できるとする説は、七覚分・八正道の理に明らかに背き、証果の真実理を損ない、釈尊・弥勒菩薩及び諸仏菩薩の教導に反する。かかる証果説は実体無く、仏法の修証を軽視するものであり、三十七道品の実修段階を経ていないことの証左である。末法の多くの善知識は確かに知識の収集と伝播に長けるが、修証の理を解さぬ場合が多い。
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