衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月03日    水曜日     第1 回の開示 合計3148回の開示

瑜伽師地論 第十巻(十二因縁)

(三十八)戒現観とは、仏の制定された様々な戒律を堅固に守り犯さず、もはや三悪道の業行を造作することができなくなった境地を指します。戒現観を成就した者は、決して故意に殺生・不與取・邪淫・妄語・飲酒を行わず、身口意の業が清浄で無漏となり、すでに三悪道の苦から解脱し、十不善業道を遠離しています。その生身は預流果より阿羅漢果、さらに辟支仏果・菩薩果・仏果に至るまで、すなわち聖果を成就した者のみが戒現観を有するのです。

瑜伽師地論第五十五巻に説かれる通り、戒現観を具足した初果以上の聖賢は、五戒及び様々な受持戒に違犯せず、心が三悪道と相応せず、三悪道に趣向する十不善道業を造作せず、五戒・比丘戒比丘尼戒・菩薩戒を犯しません。もし五戒すら守持できない者があれば、瑜伽師地論と顕揚聖教論に基づき、その者に初果以上の証量がなく、所謂る証果は誤判・仮証であり信頼に値しないと判定できます。

現観智諦現観については、瑜伽師地論第五十五巻において、加行修道の過程においてまず見道の福徳資糧を極めて円満に積集し、心が有効に調伏・調柔された後、世間択分に随順する边际に依り、無間断の善根が生起すると説かれています。これは加行道の修行により意根が充分に善法の薫染を受け、心地が柔軟調伏となり善根が顕発したことを意味します。仏法修道における「無間」は一般に意根を指し、意識は間断的で断滅し易く信頼に足りず、意根まで修行が至って初めて善法が一段落し、質的飛躍が生じて道業が上層に進むのです。

意根に善根が生発すると、心は初歩的に有情衆生の仮法を遣除し、五蘊が空・仮・虚妄であることを証得します。この時、初見道で断除すべき粗重煩悩を除去できるようになります。初果見道は粗重煩悩の現行を断除し、若干の粗重煩悩を除去できると明言されています。意根の見道成就後にのみ粗重煩悩を断除でき、意識のみでは煩悩を断じ得ません。

初果を証得すると、無間断に初果の見道智慧証量が顕現継続し、第二の見道功徳智慧が生起します。心は更に五蘊衆生の種々仮法を遣除し、我見をより深く断除して二果を証得し、中品見道の断除すべき粗重煩悩を除去します。これは初果見道が不究竟で我見の初分軟品を断じたに過ぎず、二次の中品断を通じて粗重煩悩を部分的に断じ、二果見道において更に粗重煩悩を断除する必要があることを示しています。二果も意根の証得により無間断の智慧生起を達成し、更なる粗重煩悩の断除が可能となります。

二果証得後は無間断に二果の見道智慧証量が顕現継続し、第三の見道功徳智慧が生起します。一切有情衆生の五蘊仮法を普遍的遣除する智慧が更に深く生起し、我見が一層深く断除され、これにより一切見道所断の粗重煩悩現行を断除します。瑜伽師地論第五十五巻では、この見道を初禅定と観行智慧の双運道と説き、深甚なる我見断の観行智慧に加え初禅禅定を具えて初めて一切粗重煩悩を断除できると明示されています。これが三果・四果聖人の我見断であり、三果四果見道と称されます。

初果・二果においては初禅禅定を必ずしも要しませんが、未到地定を具足することが必要です。未到地定が具足されなければ我見断の観行智慧は生起せず、初果・二果を証得できません。三果証得時には、我見断の三品毘鉢舎那観行智慧を具足すると共に、禅定奢摩他の三品見道禅定心を具え、禅定と智慧の双運により三心を建立します。これにより一刹那に三果の止観を全体具足するのです。

四聖諦を修学する全ての仁者は、必ず法に依り人に依るべからず、瑜伽師地論において弥勒菩薩が説かれた我見断・見道の基準に依拠し、自他が真の定慧等持の見道にあるか、或いは自己標榜の仮見道であるかを衡量すべきです。見道の基準を明らかにすれば視聴を混乱させず、大妄語の罪業を犯すことなく、仏教の教法を護持できるでしょう。

——生如法師の開示
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