禅参りが究極の参究状態に至ると、それは言語文字の相を離れた「尋伺」の境地であり、すなわち意根の深層に到達し、意根が参究活動に参与した状態となります。直観とはまさに意根の機能作用であり、意根の覚性であり、意根の感知作用であります。言語ではこれを明確に説明し難いのは、意根が言語と相応しないためです。意根の直観作用は非常に強力で、比較的正確なものであり、多くの人々が自らの直観を信頼しております。
心の中の全ての問題は法塵に属し、如来蔵が法塵を顕現する際、意根がまず触れて先んじて知り、その後覚知性が生じます。ある法塵については意根が大まかな状況を理解できるものの、詳細かつ具体的ではなく、その後意根が意識を導いて再び法塵に触れ、問題を注意深く観察し分析いたします。時には意識は意根の覚知する方向に沿って思考分析を開始し、最終的に問題を明らかにします。往々にして意識が意根の直観的方向に沿って思考を進める時、問題解決は迅速かつ正確に行われるのであります。
禅参りと参究とは、意識と意根が共同で協力し、一つの問題を明らかにする営みであります。意識は意根の直観作用の協力を必要とし、意根は意識の論理的思考と分析によるデータを必要とします。意根はこれらのデータを用い、さらに感知と検証を加えることで、問題を確定するのであります。
その直観的感知を持ち続けることが、即ち禅定であり参究活動でもあり、意根の深層に至るのであります。多くの人々はこの経験を有しながらも、理解せず、また活用できません。深く参究する際には意識の思考分析を用いず、意根がひそやかに深く思量を続けております。それは表現し得ず、文字言語と相応しません。意識が微かに協力し、意根を主体とする状態こそが参究の境地であります。意識を主体とするのは思考分析の状態であり、参究の状態より次元が浅く、これは禅参りの前段階としての方便であり、その後初めて参究の状態が現れるのであります。
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