衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月01日    月曜日     第3開示 合計3144開示

一切菩薩の証悟と修行は禅定を離れることができない

古来の菩薩たちの修行はみな深い禅定を必要としました。禅定の修行を離れた事例として、仏経の中に禅定を修めない菩薩の修行が記録されたことはなく、甚深な禅定を通らずに種々の三昧を証得したということもありません。そしてすべての禅定は、坐禅による静中定と切り離すことができません。それぞれの菩薩が三昧を証得した過程は、いずれの仏経にも記載されています。坐って禅定を修める過程と経験がなければ、真の意味での菩薩とは言えません。菩薩たちはみな心を修めますが、修行のときには心と身体を分けることはできません。身心は互いに影響し合うからです。身体の調子が悪ければ心の平静さに影響し、煩悩を降伏させ断除することができなくなります。

楞厳経の第五章・第六章には、諸々の大菩薩たちが種々の三昧を証悟した過程が紹介されていますが、いずれも坐禅の静中定において三昧を証得し、甚深な智慧を獲得したものです。仏陀の三大阿僧祇劫の修行については、仏の本生経にすべて紹介されており、一生一世としても、結跏趺坐して禅定を修めて証道しなかったことはありません。参禅や法義を思惟するとき、また他の問題を考えるとき、よくよく味わってみてください。坐禅をしているときに考えるほうが明晰なのか、歩いたり立ったりしているときに考えるほうが明晰なのか。心はどんな状況のときに最も安定し、安詳で、最も細やかでしょうか。いずれも静坐の中においてです。身体が堅固に安定してこそ、心も堅固に安定し、安心して、静かに落ち着いて深く思索し参究することができるのです。

過去の祖師たち、禅師たちの中で、結跏趺坐せずに修行した者は一人もいません。みな静中定が非常に優れており、四禅定を持つ者さえ大勢いました。四禅定や二禅定を持つ人が、立ったり歩いたりして修められるでしょうか。まして初禅定や未到地定 (anāgamya-samādhi) ならば、誰が坐禅を離れて修められるでしょうか。自分は坐禅をしたことがないのに、未到地定があるように感じる人もいるかもしれません。しかし、たとえその人に未到地定があったとしても、それは一時的なもので長くは続かず、堅固な参禅の功夫はほとんど身についていません。どんな禅であれ、坐禅の功夫から離れることは不可能です。坐禅の素地があってこそ、行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静すべて安然、という境地が実現できるのです。

またある人は、禅定を修めるのは時間の無駄がすぎるから、禅定を捨てて、その時間を節約して多く聞法し思惟したほうがよい、と言います。この観念は無知で幼稚すぎます。俗に「刀を研ぐのは薪割りの手間を損なわない(磨刀不誤砍柴工)」と言うように、鋭い刀があってこそ速やかに薪を切り出せ、短時間で大量の薪を切り出すことができます。鈍い刀を持っていくか、あるいは手ぶらで山に入って薪を切りに行ったら、どれほどの小枝を折ることができるでしょうか。真の修行とは、大量の時間を多聞に費やし、他人の知識や既成の理論をただ多く吸収することではなく、自己の修証を主とし、自己の内なる智慧を開発することを主とするものです。衆生は智慧と福德によって成仏するのであって、知識や理論によって成仏するのではありません。智慧を獲得して無明の結縛を断除するのは、理論的知識によって断除するのではなく、自己の修証から生み出された智慧によって断除するのです。そして智慧を修証したいなら、禅定の中で禅定に依拠してこそ、真の智慧が生まれるのです。知識があっても、なお生死輪回は免れません。

また別に一部の極端な人たちがいて、禅定だけを修めて頭を使わず、一日中ただ愚かのように坐っているだけで、思索の功夫と能力がなく、仏法を思惟することができません。下座した後も心が法義の上になく、修めているのは純然たる枯禅で、智慧の発生がありません。仏法の修行は必ず円融でなければならず、偏ってはなりません。どちらかに執著すれば、修行を成就することはできません。仏法を宣伝するにも、必ず仏説に符合する正しい修行方法を宣伝しなければならず、諸仏菩薩の修行の事実を基準とすべきです。事実から離れれば、それは事実に合わず、真理ではありません。真理でなければ、それに依止して修行しても、得道することも証道することもできません。

——生如法師の開示
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