現在、実修者だと自称する人が非常に多くいますが、果たしてどのような状態を実修と言うのでしょうか?ある人は、戒定慧の修行は小乗の修行に属し、大乗の修行では戒律や禅定に拘る必要はなく、正知正見さえあれば見道できる、いわゆる「只重子眼正不重汝行履(ただ眼の正しさを重んじ、汝の行履を重んぜず)」だと言います。これは大乗の実修の問題に関わるものであり、実際には仏法の実修の問題です。なぜなら仏法の修行においては、大乗と小乗を分けることなく、無明があれば必ずそれを断ち切らなければならず、一つでも無明があれば成仏できないからです。最初の無明を断たずして、どうして後続の無明を断つことができましょうか?前の無明が断たれれば遮障が断たれ、その後に初めて次の無明を断ち切ることができます。粗浅な無明を断たずして、どうして深く細かな無明を断つことができましょうか?
大乗はどのように実修すべきでしょうか?何が実でしょうか?何が修でしょうか?大乗とは、小乗を離れて存在する大乗なのでしょうか、小乗に背いて存在する大乗なのでしょうか、それとも小乗を含んでこそ大乗があり、小乗より高くあってこそ大乗があるのでしょうか?小乗にある一切の修為を、大乗の菩薩はすべて必要としないのでしょうか?小乗の戒定慧を、大乗の菩薩はすべて持たなくても菩薩と言えるのでしょうか?小乗は煩悩を断つ必要がありますが、大乗の菩薩は煩悩を断つ必要がなく、煩悩を抱えたまま深く修行を続けて、成仏できるのでしょうか?小乗には定がありますが、大乗の菩薩には定が必要ないのでしょうか?小乗の人は悪を断ち善を修めますが、大乗の菩薩には必要ないのでしょうか?小乗の人としての品性・修為を、大乗の菩薩はすべて必要としないのでしょうか?大乗の菩薩は小乗より品性・修為が劣っていて当然なのでしょうか?
小乗人が備えている資質は、大乗の菩薩もすべて備えているべきものです。すべての大乗の菩薩は、一歩一歩小乗の修学を経て歩んできた者です。大乗の実義の菩薩は、如来蔵を証得し、如来蔵の体性と働きを現前観察したので、心行においていっそう清浄無為であり、この点は小乗で未証悟の人には想像も理解もできないものです。学人が大乗の菩薩を自任するのであれば、小乗の修為を備え、戒定慧を具足し、粗重な煩悩を調伏し断除していなければならず、必ず定慧を具足し、心地は善であり、品性・修為は凡夫や小乗の人より絶対に高くなければなりません。さもなければ、大乗の人として自らを正当化することはできず、むしろ小を軽んじ大を捉えられない狂人であり愚者ということになってしまいます。
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