衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月02日    火曜日     第1 回の開示 合計3145回の開示

大乗者が修めるべき行いとは何か

今多くの人が自らを実践修行していると言いますが、究竟どうすれば真の実修と言えるのでしょうか。ある者は戒定慧の修行は小乗の修行に属し、大乗の修行は戒律や禅定に拘る必要がなく、正知正見さえあれば見道できる、いわゆる「只眼の正しさを重んじて汝の行履を重んぜず」と言います。これは大乗の実修問題、すなわち仏法の実修問題に触れるものです。仏法を修行するには大乗小乗の区別なく、無明ある限り断じなければならず、一つの無明が残れば成仏できません。最初の無明を断たずして、どうして後の無明を断ちえましょうか。前の無明を断てば遮障も断たれ、後の無明こそ断じ得るのです。粗浅な無明を断たずして、どうして深細な無明を断ちえましょう。

大乗はいかに実修すべきか。何が「実」であり「修」であるのか。大乗は小乗から離れて存在するのか、小乗を背いて成立するのか、それとも小乗を含んで初めて大乗となり、小乗を超えて初めて大乗となるのか。小乗における一切の修為は大乗菩薩に必要ないのでしょうか。小乗の戒定慧を、大乗菩薩が持たずして菩薩足り得るのでしょうか。小乗は煩悩を断ずるが、大乗菩薩は煩悩を断たずとも修行を深め成仏できるのでしょうか。小乗に定があるが、大乗菩薩に定は不要なのでしょうか。小乗人が悪を断ち善を修するのに、大乗菩薩は必要ないのでしょうか。小乗の人品修養は、大乗菩薩に不要なのでしょうか。大乗菩薩は小乗の人品修養より劣るべきなのでしょうか。

小乗人が備えるべき資質は大乗菩薩も全て具えるべきです。すべての大乗菩薩は小乗の修学を一歩一歩経てきたのです。大乗の真実義を体得した菩薩は如来蔵を証得し、その体性と働きを眼前に観じたため、心行がより清浄無為となります。これは小乗で未証悟の者には想像も理解もできません。学人が大乗菩薩を自任するなら、小乗の修養を具え、戒定慧を具足し、粗重な煩悩を降伏断除し、必ず定慧を具足し、心根は善であり、品性修養は凡夫や小乗人を絶対に超えていなければなりません。さもなくば大乗人と自らを説くに矛盾し、かえって小を蔑み大を掴めぬ狂人愚人となるのです。

——生如法師の開示
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一切菩薩の悟りと修行は禅定なくしては成り立ちません。

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