衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年03月02日    火曜日     第2 回の開示 合計3146回の開示

瑜伽師地論第十巻(十二因縁)

(三十七)原文:復次、欲界に生を受ける場合、欲界の身に依拠して、上地の眼あるいは耳を引き起こす。これによって見聞し、下地及び自地の全ての色声を了知する。またこの身に依りて、三界の意及び三界に繫がらざる意を起こし、現在前に現じる。色界或いは無色界に生を受ける場合は、その下地を除き、一切が現在前に現じる。恰も欲界に在るが如し。 

釈:さらに、もし欲界に生を受けたならば、欲界の色身を依り所として、上地の眼根や耳根などの機能を引き起こす。上界の眼耳根によって、下地と現前地の色声の境を見聞する。またこの欲界身に依って、三界の心意識、および三界に束縛されない心意識が現前する。もし色界や無色界に生を受けたならば、下地を除き、他の地の全ての境界が現前する。あたかも欲界に在るように。 

原文:復次、この三種の雑染、すなわち煩悩雑染・業雑染・生雑染を断じんが為に、六種の現観を修すべきことを知るべし。何をか六種と為す。謂わく、思現観・信現観・戒現観・現観智諦現観・現観辺智諦現観・究竟現観なり。 

釈:さらに、煩悩雑染・業雑染・生雑染という三種の雑染を断除するために、六種の現量観行を修める。この六種の現量観行とは何か。すなわち思の現量観行・信の現量観行・戒の現量観行・現観智諦の現量観行・現観辺智諦の現量観行・究竟の現量観行である。 

煩悩雑染とは貪瞋痴の心行を指す。貪瞋痴の煩悩雑染がある故に、それに基づく業行を造作し、この業行が後世の雑染した生身を招く。これらの雑染法を断じる為には、六種の現量観行を修習しなければならない。以下に各現観を解説する。 

思現観とは四聖諦の理を如実に審査し決定する思惟であり、諸法の苦・空・無常・無我の理を決定し証悟する。外道の影響を受けず、四聖諦の理に退転しない。思現観が成就すれば正行が生じ、心は清浄となり歓喜を生じ、疑惑を断じ、永く善道に住し悪道に趣かぬ。これは意識と意根の思惟によるもので、単なる意識の思惟では心行を改め疑惑を断ずることはできない。思現観には大乗法に対する思惟も含まれる。現観と称される所以は、実際に真理に符合し実証的智慧を具えるからである。 

信現観とは三宝に対する決定不疑の清浄な信心を指す。疑念や迷いが無ければ、誹謗の業を造作することはない。決定信は智慧を表し、智慧あるが故に現観が可能となる。そうでなければ妄分別に陥るのみである。 

信現観を具える者は、仏・法・僧三宝を誹謗する業を造らなくなる。仏を誹謗するとは、仏が単なる阿羅漢や辟支仏の果位に過ぎず、四聖諦や十二因縁の証量以外に何もないと主張すること。仏に大神通や無量の神通が無く、世人と大差ない平凡な存在だと誹謗すること。仏が在家者と同じ行いをし、仏の肉身が世人の髪の如きものだと誹謗すること等、これらは清浄信・決定信に非ず、命終すれば必ず三悪道に堕する。信現観を具える者は三世諸仏の無量の功徳・福徳・智慧神通を如実に了知し、誤解を生じず、三宝に対する勝解を有し、迷信せず正行を修め善業を積む。 

末法の世において法を誹謗する現象は普遍化している。最も深刻なのは「大乗非仏説」の主張である。彼らは大乗の法義が真実か如理か殊勝かを全く弁えず、甚だしい愚痴心から根拠なく非仏説と断じる。法を非法と説き、非法を法と説く等の顛倒は極めて重い謗法罪であり、命終すれば必ず地獄の果報を受ける。 

僧を誹謗する現象も広く見られる。僧を非僧と説き、非僧を僧と説くは即ち謗僧である。出家者の身口意の行いを事実の有無にかかわらず非難し、僧侶の形象を損ない衆生の信心を失わせる行為は、全て謗僧に属する。衆生の信根を破壊し三宝を信受させぬようにする罪業は極めて重く、多くは地獄に堕する因となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

大乗者が修めるべき行いとは何か

次の記事 次の記事

父子合集経講義(一三九)

ページのトップへ戻る