(三十七)原文:复次。若生欲界。依欲界身。引发上地若眼若耳。由此见闻。下地自地所有色声。又依此身。起三界意。及不系意。而现在前。若生色无色界。除其下地。一切现前。如在欲界。
解釈:さらに、もし欲界に生まれたなら、欲界の色身に依拠して、上地の眼や耳などの根の功能を引き発し、上界の眼耳根によって下地と現前地のすべての色声の塵境を見聞することになる。また、この欲界身に依拠して、三界の心意、および三界に繫縛されない心意が生じて現前する。もし色界・無色界に生まれたなら、下地を除いて、その他の地のすべての境界が現前し、欲界地にいるときのようになる。
原文:复次。此三种杂染。谓烦恼杂染。业杂染。生杂染。为欲断故。修六种现观。应知何等为六。谓思现观。信现观。戒现观。现观智谛现观。现观边智谛现观。究竟现观。
解釈:さらに、煩悩雑染・業雑染・生雑染という三種の雑染がある。この三種の雑染を断除したいがゆえに、六種の現観を修めるのである。六とは何かを知るべきである。すなわち、思の現観、信の現観、戒の現観、現観智諦現観、現観辺智諦現観、究竟現観である。
煩悩雑染とは貪瞋癡の心行であり、貪瞋癡の煩悩雑染があるために、貪瞋癡の煩悩雑染の業行が造作され、貪瞋癡の煩悩雑染の業行があれば、後世に雑染の生身をもたらすことになる。これらの雑染法を断除しようとするなら、六種の現量観行を修習しなければならない。次に、いくつかの現観をそれぞれ紹介する。
思現観とは、四聖諦の理に対して、如実に、慎重に、決定的に思(思量 manasikāra)することであり、諸法が苦・空・無常・無我の理であることを決定的に明らかにして証悟でき、外道はその決定的な思に影響を与えることができず、四聖諦の理に対して再び退転することがない。思現観が成就すれば、正行があり、心地は清浄 (viśuddha) となり、心に歓喜が生じ、諸々の疑惑を断じ、永く善道に住して悪道に趣かない。これが意識と意根の思であり、意識だけの思では、心行を変え、疑惑を断除し、心地を清浄にし、悪道を永遠に絶つことはできない。もちろん思現観には大乗法に対する思も含まれる。現観と呼ばれる以上、実際に合致し、真理に合致するのであり、その中には実証の智慧があるのである。 信現観とは、三宝に対して決定的な信と清浄な信を持ち、猶疑や二心三意がないことであり、もちろん誹謗の業を造作することもない。決定的な信は智慧を表し、智慧があってこそ現観があり、さもなければ現観はできず、妄分別しかできない。
信現観のある人は、仏・法・僧の三宝を誹謗する業行を造作しなくなる。仏を誹謗するとは、仏は阿羅漢や辟支仏の果位にすぎず、四聖諦と十二因縁の証量しかなく、それ以外の証量はないと言うことを含む。仏には大神通も無量の神通もないと誹謗し、仏は世間の人と大差なく、きわめて平凡だと誹謗する。仏は在家者であり、在家者の事を行うと誹謗し、仏の肉髻は世間の人の髪の毛だと誹謗するなど、これらの言論はことごとく清浄な信でも決定的な信でもなく、したがって命終にはすべて三悪道に趣って果報を受けることになる。信現観のある人は、三世の諸仏について、その無量の功徳・福徳・智慧・神通を如実に了知でき、誤解を生じず、三宝に対して勝解 (adhimokṣa) を持ち、迷信せず、正行があり、善業がある。
法を誹謗する現象は、末法の時期には普遍的な現象であり、多く見れば不思議ではなくなる。最も深刻なのは「大乗非仏説」であり、こうした人々は大乗法義が正真かどうか、如理かどうか、殊勝かどうかをまったく読み取れず、甚だしい愚癡の心で、盲目的に、根拠なく非仏説と断定する。また、法を非法と言い、非法を法と言うなど、種々の顛倒があり、いずれもきわめて深刻な謗法の行為であり、命終には必ず地獄の果報を感召する。
僧を誹謗する現象もまた非常に普遍的である。僧を非僧と言い、非僧を僧と言うのが謗僧である。出家者の種々の身口意行を指摘し宣伝することは、その事実があろうとなかろうと、いずれも謗僧に属し、衆生の心の中の僧のイメージを破壊し、悪影響をもたらし、衆生が僧宝に対して信心を失い、もはや三宝を信受しなくなり、衆生の信根を破壊させることになる。これらの罪業はいずれもきわめて大きく、多くは地獄罪であり、地獄に報いる。
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