古くより全ての菩薩方の修行には深い禅定が必須であり、禅定を離れた修行例は仏典に一度も記されていません。いかなる菩薩も禅定なくして修行を完成させた例はなく、深甚なる禅定によらずに種々の三昧を証得した例は存在しません。そして全ての禅定は座禅による静中の定から離れることはできません。各菩薩が三昧を証得する過程は諸仏典に詳述されており、座禅による修定の過程と経験を経なければ、真の菩薩とは言えません。菩薩方は皆心を修めますが、修行において心と身体を分離することは不可能です。身心は相互に影響し合い、身体が健全でなければ心の平静を保てず、煩悩を降伏・断除することはできないからです。
楞厳経第五・六章には諸大菩薩が種々の三昧を証悟した過程が記されており、全て座禅の静中定において三昧を証得し深甚なる智慧を獲得したと明記されています。仏陀の三大阿僧祇劫にわたる修行も、本生経に詳細に記述されており、座禅を組まずに悟りを開いた生涯は一度もありません。禅を参究し法義を思惟する時、他の問題を考える時、よく観察してみてください。座禅中の思考が明晰か、あるいは歩行時・立位時の思考が明晰か。心が最も安定し穏やかで、微細な観察が可能となる状態はいつか。全ては静座中にあります。身体が安定して初めて心も安定し、深く思索し参究することが可能となるのです。
過去の祖師方・禅師方で座禅を組まずに修行した者は一人もおらず、静中の定を極めて良く修め、多くの者が四禅定まで達成していました。四禅定や二禅定を証得した者で、立位や歩行中にこれを修得した例があるでしょうか。初禅定や未到地定でさえ、座禅を離れて証得できるものではありません。未到地定があると自覚していながら座禅経験のない者もいるかもしれませんが、そのような定は一時的なもので持続せず、堅固な参禅功夫とは言えません。いかなる禅修も座禅の功夫から離れることは不可能です。座禅の基盤があって初めて、行住坐臥全てが禅となり、語黙動静において安らぎを得られるのです。
また「禅定は時間の無駄だから捨て、その時間で法を聞き思惟すべきだ」と主張する者もいますが、この考えは極めて浅はかです。諺に「刃を研ぐ時間は薪割りの妨げにならない」とある通り、鋭利な斧を用いれば短時間で大量の薪を得られますが、鈍刀や素手ではわずかな枝すら折れません。真の修行は多聞に時間を費やすことではなく、他人の知識や理論を吸収するだけではなく、自己修証を主とし、自らの内なる智慧を開発することにあります。衆生が成仏するのは智慧と福徳によるのであって、知識理論によるのではありません。無明の束縛を断じるのは理論知識ではなく、自己修証によって生じた智慧です。そして智慧を修証するには、禅定に依拠する以外に道はないのです。知識があっても生死輪廻から逃れることはできません。
更に別の極端として、思考を用いずただ漫然と座るだけで、仏法を思惟する功夫も能力もなく、座を下りても心を法義に留めない「枯禅」に陥る者もいます。仏法修行は円融でなければならず、偏執すれば成就できません。仏法を宣揚する際も、仏説に符合した正しい修行法を伝え、諸仏菩薩の修行事実に依拠すべきです。事実から離れた教えは真理ではなく、真理でなければ依拠しても悟りを得ることはできないのです。
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