評議:真実の心を凝らして守れば、妄念は生じず、我所有の心は滅し、涅槃の法が顕れる。
修道の過程において真実の心を証得した場合、最初は心を静めるために真実の心を守ることを帰依とすることができる。修行が深まるにつれ、真実の心を守ることさえも虚妄の法であり余計なものであることを知るようになる。守るという心の働きは妄心の働きであり、すなわち妄念が生じたことになる。なぜ真実の心を守るのか。それは真実の心を我や我が所有と見做しているからこそ守ろうとするのであり、我所有の心が滅していないことを示す。この時、心は以前より清浄となり、あたかも真実の心のように他の念がなくなった状態は禅定の境界であり、涅槃の真実心が顕現したと解釈することも可能ではあるが、やや牽強付会である。涅槃の真実心は常に顕現しているものであり、これを証悟した者には自明であるからだ。
凝然として心を守ることを認めるならば、この「心を守る」とは妄心が虚妄に造作することを許さず、貪瞋痴の業を造らず、清浄に回帰する、あるいは真実の自性に帰ることを指す。真実の心を守るという表現には議論の余地がある。真実の心は守る必要がなく、証悟した者がこれを守るのは蛇足であり、煩悩と執着を増長させ、生死の牢関を突破できなくなる。未証悟の者が守ろうとしても真実心を見出せず、どうして守ることができようか。ただ「守る」という一字が念頭にある限り、真実心を守ろうと妄心を守ろうと、守るという行為そのものが妄念である。この時ただ意識の妄念が生じないだけで、意根には絶対に念があり、念が滅した時には心は空となり、何も守らず、守ることもできず、守るという心行もなくなる。念と心がある時、涅槃の真実心と妄心は共存しており、どちらが顕現した涅槃心と言えるのか。守るという心行がある限り心行は滅せず、守護する対象は我所有であり、何を守ろうとも全て我所有を守ることに他ならず、我所有の心は根本的に滅していない。
禅宗と唯識の境界は比較にならない。禅宗の修行段階では心の空性が未だ不十分であり、たとえ禅宗第三関を通過しても、唯識段階の修行者の心の空性には及ばない。ただ一つの心行が空じられない限り、禅宗第三関を突破することも第三関に至ることもできない。心が空じて初めて有余涅槃を証得し、禅宗第三関の生死牢関を突破する力を得る。真実心を守れば真実心に縛られ、生死の業が残り涅槃を得られない。守ることは生死の業であり、守れば心は多事となり寂静を失う。第四禅は捨念清浄と呼ばれ、念を捨てて初めて清浄となる。念を捨てれば守ることもなく、心は空無に住する。守る行為があれば無想定に入ることも滅尽定に入ることもない。なぜ滅尽定に入れないのか。意根になお受想が残り、守ることは想であるからだ。無想定にも意識の守りはなく、意識は作用を起こせない。守ることは制心一処の修定に類似し、制するとは放置すること、対治すること、動作と運行があることを意味する。
我々が今論じているのは最終的な修行の結果であり、修行過程ではない。修行過程においては必要な方法を採るべきであり、これらは全て修行に必要な措置であり避けられないものである。しかし最終的な結果においては必ず心行が寂滅している。例えば戒を守ることが守る必要のない次元に至った時、初めて戒に自在となり戒を越えず、全く意根の習慣習気となり、心行が天然のまま戒律に自然に符合するようになる。
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