修行とは仮の法をより良く清浄ならしめること
或る者が問うであろう、もし全てが得られないならば、我々は何を修めるのかと。修行とはまず一切の法が得られないという理を知り、次に一切の法が得られないことを証得し、最後に心が空々となって大解脱を得、有所得の束縛を離れ、一切の生死の苦より解脱するのである。たとえ真に得るものがないとしても、我々はこの得られない法を得なければならず、さもなくば生死輪廻は止むことがない。
一切の法は虚妄にして得られず、我々が苦報を受けることは仮なるものだが、しかし誰も苦報を望まない。悪行を造作することは仮なるものだが、しかし我々は悪業を造作してはならない。人を殺すことは仮なることだが、しかし我々は人を殺してはならない。地獄は仮なるものだが、誰もそこへ往きたくはない。成仏は仮なるものだが、我々は皆成仏を願う。修行とはこのようなものであり、仮の法には仮の法の作用があり、真には真の作用がある。既に全てを滅却できないならば、仮の法をより良く、より清浄ならしめねばならない。我々の七識の心は仮なるものだが、しかし大いなる作用を有している。ならば必ずやこれを善き作用に導かしめねばならず、仮なるものを全て放棄してはならない。そうすれば成仏できない。この弁証法的矛盾のように見える理も、証果すれば矛盾しないと悟るのである。
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