衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年02月26日    金曜日     第1 回の開示 合計3134回の開示

大乗法による参禅は深重な罪業を消滅させることができるか

或る者は「衆生の罪業が山の如きものであれば、誰が罪を受け誰が業を造るかを参究すれば、真実心を証得でき、真実心は業を造らず罪を受けないゆえ罪業は消滅する」と説きます。このような罪業消滅の方法は極めて不適切で理に適いません。第一に、業障が重いため修行の障礙も重く、菩薩の六波羅蜜行を円満することは到底叶わず、真実心を証得する因縁条件も整わず、参禅も不可能であるため、深重な罪業を消滅させることはできません。第二に、この方法は末法の業障深重な衆生に因果撥無の見解を生じさせ、悪業から逃避させ自心の染汚を省みなくなり、修行を重ねても罪業は依然として山積みとなり、却って増大する恐れがあります。

初心の学人や業障深重の者が四正勤の段階で悪を断じ善を修めるには、罪報の苦受の縁由を観察し因果を了達する必要があります。因果を畏怖し敬虔に思う心こそが悪を断ち善を修め、自心の煩悩を降伏させ、最終的に脱胎換骨して大乗菩薩となる基盤です。業障深重の時期に大乗の無相懺悔による滅罪法を用いたり、大乗参禅の方法で煩悩と罪業から逃避することはできず、事実上逃避も不可能です。重い罪業に遮られた状態で、如何にして参禅によって第八識の明心を証得できましょうか。如何にして無相の境地に至れましょうか。

参禅の因縁条件が具わらぬ場合、推論によって第八識を憶測するしかなく、七識心に対する第八識が永遠に作用せず毫釐の功徳もなく、罪業を微塵も消滅させず、三縛結を断じ得ないと推測します。第八識は悪業を造らず報いを受けないと推論しても、七識の悪業は依然として存在し消滅しません。第八識は七識を代替できず、第八識は本来清浄なる仏性ですが、七識は無始以来罪業の凡夫であり、第八識が七識の苦しみを代わることも、七識が第八識の仏光に触れて苦しみを軽減することもありません。

第八識には貪瞋痴の煩悩が無いにも拘わらず、七識は貪瞋痴を断ち切れず、第八識は常に解脱しているのに七識は毫釐も解脱していません。第八識が仏であるにも拘わらず、七識は仏の座に就くことも仏の待遇を受けることもなく、ほとんどの時を三悪道で苦しみながら生死流転を続けます。故に第八識と七識は相互に代替できないと説かれるのです。第八識は一切処・一切界・一切法・一切時・一切地に遍満しており、意識が多少利発であれば至る所に第八識があると推論でき、第八識の概略を理解できますが、このような推論に何の意義がありましょうか。凡夫の貪瞋痴が生み出す想念は無数にありますが、無始以来どれほどの事が思い通りになったでしょうか。

故に実相懺悔や参禅による滅罪法は初心者には全く現実的ではなく、業障が軽微で六波羅蜜行をほぼ修めた者に限り、この方法で業を消滅させることが可能ですが、完全な保証はなく、仏の傍らにあれば可能性は高いものの、仏から離れれば困難が大きいのです。推論は容易ですが実証は難しく、末法が進むほどこの傾向は強まり、誰もが僥倖を期待せず真剣に実修すべきで、手抜きや近道を選ぶべきではありません。

何故第八識を実証して初めて罪業が消滅するのでしょうか。実証の過程で五蘊の作用を理に適い真実の如く観行し、五蘊が心中に空なるものと次第に観じ、生滅の現象を明晰深く観察し、遂に我見を断ずるからです。第八識を証得した後、五蘊が全て第八識から生じたものと観じることで、より無我・空の境地に至り、五蘊の我によって造られた罪業も空となり、我も我所も無くなるのです。

般若心経の最初の句「観自在菩薩は深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見したまえり」の如く、参禅観行の結果が五蘊皆空の照見であり、これが証悟の功徳です。五蘊が空じて無我となる観行の究極は照見、即ち頓悟です。「照」とは心燈が動かず智慧の光が五蘊の影像を映し出すことで、これは真実心第八識の影像であり、五蘊は五蘊にあらず。照見の智慧は容易に生じず、菩薩の無量功徳を広く修め、脱胎換骨に近づいて初めて五蘊皆空を照見できます。「照」は意識の浅い思惟ではなく、意根の深微なる智慧の作用であり、心光が発現して五蘊を透徹する時、五蘊の真実相が顕現するのです。

真剣な修行なく、禅定を修めず、三十七道品を実践せず、悪を断じ善を修めず、煩悩を降伏させず、業障に遮られたままであれば、照の智慧光は永遠に現れず、浅薄な推論や意識レベルの理解に留まり、意根が参与できません。すると意根の凡夫性は永遠に変わらず、命終すれば凡夫の胎を受けることになります。入胎は意根が決定し、意根と業力によって定まるからです。意根に智慧を生じさせ、意根を転換して初めて業力を変え罪障を消滅させられるのです。

——生如法師の開示
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