衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月27日    土曜日     第1 回の開示 合計3136回の開示

黙念の原理

意根は主導する識であり、身口意の行いはいずれも意根の制御と主導を受けます。心の中で経咒を黙読する場合も同様で、意根が黙読しようと決めれば、意識は声を出さずに心の中で誦します。声を出して誦す場合も意識が誦していますが、それは意根が誦したいと判断したため、意識が誦すのです。あるいは意識が誦したいと思い、意根がそれを認めた場合に限り、意識は誦すことができます。要するに誦するという行為は意根が決定し、意識が造作するものなのです。 

なぜ意根は声出し誦と黙読を選択するのでしょうか。この選択は極めて微細で観察し難く、意識は常にこれが自動的で自然なことだと感じています。このような感覚は、意識心が粗く定力がなく、その微妙で隠れた部分を観察できないことを示しています。意根が声を出すか出さないかを選択するのは、身心の状態、具体的には体内の気が充足しているかどうかに基づきます。禅定にある時は、心を動かすと疲労を感じ、声を出すことは活動量が多く意識が疲れるため、意根は自動的に声を出さない選択をします。身体が疲労している時も、声を出さず心で誦することを選びます。表面的には自動的に見えますが、実際は意根が第八識に依り、極めて迅速かつ密接に身心の状態を了知し、身心に有利な選択を瞬時に行っているためです。多くの人の意識はこのことを認識していません。 

黙読は定力を増すことができ、あるいは定力が増強されると声を出して誦すことが困難になります。声を出すと心が疲れるため、自然に黙読に移行します。さらに定力が増強されると黙読でも疲れるようになり、金剛持誦(口形だけ動かし声を出さず、心の中の音声も微細にする)に改めます。金剛持誦さえも苦痛に感じる段階になると、頭脳による憶念に切り替わり、更に定力が増大すると憶念も不可能になり、深い禅定に入り一切の念想が消失します。

——生如法師の開示
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