意根は主導的な識であり、身口意の行いはすべて意根によって制御され主導されます。心の中で経文や真言を黙誦する場合も同様で、意根が黙念しようと決めると、意識は声を出さずに心の中で誦します。声を出して誦す場合も意識が誦すのですが、それは意根が誦したいと決めたからこそ意識が誦すのです。あるいは意識が誦したいと思い、意根がそれを認めた場合に限り、意識は誦すことができます。要するに誦するという行為は意根が決定し、意識が造作するものなのです。
なぜ意根は声を出すか黙念するかを選択するのでしょうか。この選択は極めて微細で観察し難く、意識は常にこれが自動的で自然な成り行きだと感じています。このような感覚は意識心が粗雑であり、定力もなく、その微細な点や隠れた部分を観察できないことを示しています。意根が声を出すか黙念するかを選択するのは、身心の状態、特に体内の気が充足しているかどうかによって決まります。禅定にある時、心を動かすと疲労を感じ、声を出すことは活動量が多く意識が疲れるため、意根は自動的に声を出さない選択をします。身体が疲労している時も、声を出さず心の中で誦することを選びます。表面的には自動的に見えますが、実際には意根が第八識に依り、極めて迅速かつ緻密に身心の状態を了知し、身心にとって有利な選択を瞬時に行っているのです。多くの人の意識はこれらのことを認識していません。
黙念は定力を増すことができ、あるいは定力が増強されると声を出して誦すことが困難になります。声を出すと心が疲れるため、自然と黙念するようになります。さらに定力が増強されると、黙念も疲れるようになり、金剛誦に改めます。口形だけ作って声を出さず、心の中の音声も微細になります。金剛誦さえも苦痛に感じる段階になると、頭脳による憶念に改めます。定力がさらに増強されると憶念も不可能になり、深い禅定に入り、一切の念頭や思念がなくなります。
7
+1