衆生の罪業が山の如くであるなら、誰が罪を受けているのか、誰が業を造っているのかを参じてみれば、真心を証得でき、真心は業を造らず罪を受けないのだから、こうして罪業が消えるのだ、と言う人がいます。このような罪を消す方法は非常に不適切で、如理ではありません。その一、業障が重いために修道の遮障も重く、菩薩の六度の修行を円満に成就することは根本的にできず、真心を証得する因縁条件に達することは不可能であり、禅を参じることもできません。それゆえ、深重な罪業を消すことは不可能なのです。その二、このようにすると、末法の業障深重な衆生にとっては、因果を抜却(撥無)することになり、悪業から逃避し、自心の染汚を反観することができず、修を重ねても罪業は依然として山の如くであり、むしろ増えるかもしれません。
初機の学人や業障深重な人は、まさに四正勤を修行し、悪を断ち善を修める段階にあり、罪報の苦受の縁由を観察し、それによって因を識り果に達する必要があります。因果を懼れ敬うことによって初めて悪を断ち善を修め、自心の煩悩を降伏し、最後にようやく脱皮換骨し、心を洗い面を改め、大乗の菩薩となることができるのです。業障が深重なときには、大乗の無相懺悔の滅罪法を用いることもできず、大乗の参禅の方法で煩悩や罪業から逃避することもできません。実際にも逃避できず、躲れるものではありません。あれほど重い罪業に遮られているのに、どうして禅を参じて第八識を証得し明心できましょうか。どうして無相に達することができましょうか。
参禅の因縁条件が具足しないと、推論や推測によって第八識を捉えるしかなく、第七識に対して永遠に働きを持たない第八識を憶測し出しても、一毫の功德受用もなく、少しの罪業も消すことはできず、三縛結も一毫たりとも断ることができません。悪業を造らない第八識を推理し出しても、悪業がなければ果報を受けないだけであり、第七識の悪業がどれほど重くてもそのまま重く、消えることはありません。第八識は第七識の代わりにはなれません。第八識はもともと自性清浄であり、もともと仏ですが、第七識は無始劫以来ずっと罪業の凡夫であり、第八識は少しも第七識の代わりに苦を受けることはなく、第七識も少しも第八識の仏光に浴することなく、一分の罪苦を減らすことはなかったのです。
第八識は貪瞋痴の煩悩を抱いたことが一度もありませんが、第七識は貪瞋痴が断絶したことが一度もありません。第八識は常に解脱していますが、第七識は一毫たりとも解脱したことがありません。第八識は仏ですが、第七識はそれによって仏の宝座に座ったことも、仏の待遇を受けたことも一度もなく、ほとんどの時間を三悪道の中で苦しみ、生死を輪転して休むことがありません。それゆえ、第八識と第七識は互いに代わり合わないと言うのです。第八識は一切処、一切界、一切法、一切時、一切地に遍在しており、少しでも聡明な意識なら推論でき、至る所に第八識があり、考えてみれば第八識が大体どのようなものか分かります。しかし肝心なのは、そう考えて何の役に立つのかということです。凡夫は貪瞋痴を抱き、考えることは山ほどありますが、無始劫以来、どれほど多くの事が思い通りに成就したでしょうか。
それゆえ、実相懺悔や参禅の方法による滅罪は、初機の学人にとっては非常に非現実的であり、業障がいくらか軽い人、菩薩の六度をほぼ修め得た人だけが、このような方法で証悟し業を消すことができるのです。しかし完全に保証があるわけではなく、仏の身近にあれば可能性は大きいですが、仏を離れると難度は確かに小さくありません。推論は容易ですが、実証は難しく、末法の時代に近づくほどそうであり、誰もが幸運を期待する心理を持ってはならず、真の功夫で実修しなければならず、手を抜いて近道をしようとしてはなりません。
なぜ第八識を実証して初めて罪業を消すことができるのでしょうか。実証の過程において、五蘊の働きを如理に如実に観行することができ、五蘊は心中でますます空になり、ますます実在でなくなり、生滅の現象がますます明晰に深く透徹して観察され、最後には我見を断除するからです。第八識を証得したとき、さらに五蘊はすべて第八識が出生したものであると観察すれば、心中はいっそう無我で空になり、もちろん五蘊の我に依って造られた罪業もまた空であり、無我無我所となるのです。
例えば心経の第一の言葉に、「观自在菩萨行深般若波罗蜜多时照见五蕴皆空」とあります。参禅観行の結果こそが照見五蘊皆空であり、これが証悟の功德であり、五蘊は空になり、無我になったのです。観行の最後の結果こそが照見であり、この照見こそが頓悟です。照とは心灯が動かないことであり、智慧の光芒が五蘊の影像を映し出すことであり、それは真心第八識の影像であり、五蘊はなく、五蘊は五蘊に非ず、ということです。照見の智慧は極めて生じにくく、菩薩の無量の功德を広く修め、脱皮換骨に近づいたときに、ようやく照見五蘊皆空が可能になるのです。照とは、意識の浅い思惟ではなく、意根の深く細かな智慧の功能作用であり、心光が発せられ、五蘊を透過して、初めて五蘊の真相が顕れ出るのです。
ところが真の功夫を作らず、禅定を修めず、三十七道品を修めず、悪を断ち善を修めず、煩悩を降伏しなければ、業障に遮られて、永遠に照の智慧の光芒を出生することはできず、浮浅な推論をするしかなく、意解し、研究するだけで、意識の上でだけ力を用い、意根が入ってこないなら、意根の凡夫の骨は永遠に換わらず、命終のとき凡夫の胎であるべきならやはり凡夫の胎です。なぜなら、入胎という事は意根が決めることであり、意根と業力によって決定され、意根こそが業力を代表しているからです。意根に智慧を生じさせ、意根を変えてこそ、業力を変え、罪障を消すことができるのです。
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