衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年02月20日    土曜日     第2 回の開示 合計3115回の開示

意根の智慧と意根の思惟

意根そのものには言語文字や音声の相がなく、言語文字を用いて思惟することもなく、心を働かせる際にも音声を発しません。そのため意根の思量と作用の行相は微細で観察し難く、捕捉が容易ではありません。禅定が不十分で心が細やかでない場合は観察が困難であり、意根に対する誤解は避けがたいのです。 

意識には時に智慧があり、時に智慧がありません。意根もまた時に智慧があり、時に智慧がありません。意識の智慧が良く発揮されれば、意根の了別と抉択を補助できます。しかし意根自体に智慧があれば、意識の智慧による補助は不要であるか、あるいは意識による思惟分析の補助を必要とせず、単に了別を助けるだけで十分です。意根が法の粗相と細相を了別すれば、直ちに如何に処理し対処すべきかを知るのです。意根自体に智慧がある時はこのようであり、意根に智慧がない時は、意識が了別を補助するだけでなく、思惟分析・推理判断まで補助しなければなりません。その後、意根は意識の判断に基づいて思量し、自らの判断を下しますが、必ずしも意識の判断と一致せず、その抉択は意識の予想を超える可能性があります。 

意識が自心を反観するのは証自証分であり、意識が観察する対象が意根の心念である場合は自証分です。しかし意識に智慧がない場合、自らの心念か意根の心念かを必ずしも判別できず、全てを意識自身の心念と見做してしまいます。そのため多くの人が「これは明らかに意識の機能作用ではないか、どうして意根の機能作用と言えるのか」と問うのです。実は自らの意識に意識と意根の差異と境界を弁別する智慧がなく、道種智を具えていないため、意識と意根の作用を区別することは誠に極めて困難なことなのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

『瑜伽師地論』第十巻(十二因縁)

次の記事 次の記事

父子合集経講話(一二九)

ページのトップへ戻る