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日常開示

2021年02月20日    土曜日     第1 回の開示 合計3114回の開示

『瑜伽師地論』第十巻(十二因縁)

(三十二)原文:問く。世尊の説かれたる縁起の甚深なること。この甚深なる義、如何にして知るべきか。答えて曰く。十種の相によりて、縁起の甚深なる義を知るべし。無常の義、苦の義、空の義、無我の義に依って説くを謂う。無常の義に依るとは、自種子より生ずるも亦他縁を待ち、又他縁より生ずるも亦自種子を待つ。更に自種子より、又他縁より生ずれども、種及び縁この生事に於いて作無く用無く、亦運転無し。また此の二つの因性の功能、有りて非ざるに非ず。 

釈:問う。世尊の説かれた縁起法は甚深であるが、この甚深なる意味を如何にして知ることができるか。答える。十種の相によって縁起法の甚深義を知ることができる。即ち縁起法の無常義・苦義・空義・無我義に依って説かれる十種の相によって、縁起法の甚深なる意義を明らかにする。

無常義の意味とは、縁起法が自らの種子から生じるものでありながら、同時に他の縁の成熟に依存し、共同して縁起法生起の因縁となることを指す。更に、縁起法が他の縁に依存して生じる際にも、自らの種子の縁が必要であり、この二つが欠けることなく共同して現れなければ、縁起法の生起はあり得ない。また縁起法は自種子に依るのみならず他の縁にも依って生じるが、種子及び他の縁が縁起法の生起に対して実質的な作用を持たず、縁起法に随って運転することもない。しかしこの二つの縁の機能作用が全く無いわけではなく、縁起法を直接生じることはできないが、その機能は存在する。

例えば眼識は縁起法であり、眼識の自種子は眼識の識種子である。眼識を生起させる他の縁には識種子の他に八種の縁があり、色塵はその一つの縁である。これらの縁が集まって初めて眼識は生じ、一つの縁が欠けても眼識は生じない。しかし眼識はこれらの縁から生じたのではなく、第八識がこれらの縁を借りて眼識を生じさせるのである。即ち眼識を生じる機能は第八識に属し、眼識の自種子や他の八種の縁にあるのではなく、九種の縁は眼識生起に対して実質的な作用を持たず、単に助縁・増上縁に過ぎない。

原文:また諸の有支は、無始より来たりその相成就すれども、然れども刹那刹那に新たに相転ず。また縁起支は刹那速やかに滅すれども、然れども停住運動の相の如き現わる。苦の義に依るとは、縁起支が一味の苦相なりながら、三種の相の如き現わるるを謂う。 

釈:更に十二有支は無始よりその相が絶えず成立しているが、これらの相は刹那刹那に生滅し、新しい相が次々と転じながら作用を継続させ、十二有支の生住異滅を維持している。またこれらの縁起支は刹那的に速やかに生滅するが、停滞と運動の相が現れ続けるかのように見える。

縁起法の苦義に依って言えば、縁起法は純粋に苦の相のみであるが、苦・楽・不苦不楽の三種の相が現れているように見える。

原文:空の義に依るとは、縁起支が有情の作者・受者を離れながらも、然れども離れざるが如く現れ説くを謂う。無我の義に依るとは、縁起支が自在ならざる実に我相無きながら、然れども我相の如く現わるるを謂う。勝義諦に依れば、諸法の自性は説くべからざるながら、諸法の自性を説くと言う。

釈:縁起法の空義に依って言えば、縁起支は有情の作者・受者を離れているが、あたかも離れていないかのように縁起支の作者・受者を現じ、故に空と説かれる。無我の義に依れば、縁起支は不自在であるが実際には我相が無いにもかかわらず、我相が現れているように見える。勝義諦に依って説けば、これらの縁起法の自性は不可説であるが、諸法に自性があると説かれるのである。

——生如法師の開示
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