衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年02月14日    日曜日     第1 回の開示 合計3094回の開示

古今の仏道を学ぶ者の違い

昔の人々は根器が優れており、心性が素朴で現実的であり、修行に代償を払う覚悟があり、真実の修行を実践して私利を計らず、物事を放下する智慧を持ち、煩悩は軽微で貪欲少なく、出離心が強くありました。現代人は浮ついて地に足がつかず、口先ばかりで実行が伴わず、腹空きながら高望みし、意識のみを広く働かせて表面的な理解に留まり、禅定の中で深く参究することができず、意識の表面を漂うだけで内奥に深入りできず、意根の究明と意識の理解は雲泥の差があります。理解が浅い故に慢心が熾盛となり、最も重い障害となっています。 

昔の人々は仏法の基礎が堅固で、微細なところまで修行が行き届いていました。現代人は基礎仏法を顧みず、四聖諦を可有可無と考え、高遠を好んで小を捨てる傾向があります。基礎的な修行がないため煩悩を調伏できず、心行を転換できず、身口意の行為に貪瞋痴の煩悩が重く、業障は軽減するどころかますます重くなり、仏法を学んでも進歩がありません。現代人は外道を蔑みますが、仏法の知見以外のあらゆる面で外道の半分にも及びません。外道には出離心があり、心質が純朴で、禅定は甚深、煩悩は極めて軽微で、自らを厳しく律し、道徳的品性などあらゆる面で現代の仏教修行者を凌いでいます。 

外道は真の解脱法に触れていないだけであり、一旦触れれば即座に初果から四果まで証することが可能です。現代人は生涯仏法に触れながら、初果の影さえ見えず、偽りの証果を除けば、どうして外道と比べられましょうか。外道は智慧が不足し相応の法に遇わないだけで、証果解脱まで紙一重の差があります。多くの外道が仏法に遇い、仏陀の法音を聞くや、鬚髪自ら落ち袈裟をまとい、煩悩を断尽しました。過酷な生活環境の中、外道たちは深山幽谷で坐禅三昧に励み、仏陀の説法に遇えば数万人もの者が出家修道し、証果者も極めて多数ありました。 

我々は長年仏法に触れながら、数十年経ても八正道を修めず、最も基本的な欲界定さえ得られず、心は貪瞋痴の煩悩に満ち、人我の是非に日々囚われ、少しの苦も受け入れず、少しの享楽も捨てられず、財色名食睡に執着し、口先では高邁な理論を語りながら、身の行いは悪道に近づいています。もし大乗仏教の修行者がこのような姿ならば、それは大乗法を辱め滅ぼす行為であり、この事実に気付く者は殆どいません。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

父子合集経講話(一二一)

次の記事 次の記事

意根と五蘊の関係

ページのトップへ戻る