衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月13日    土曜日     第2 回の開示 合計3092回の開示

僧侶が頻繁に供養や回向を行うことは如法でしょうか

常に供養や回向を頻繁に行う寺院は非常に混乱しており、出家者が安心して修行に専念できません。僧侶の修業が普遍的に不十分で、修行の力が弱く、道行きも未熟であるため、衆生を救済する力がなく、供養される霊界の衆生は根本的に救済されず、寺院に留まってトラブルを起こします。出家者は病弱になったり煩悩が多くなったり、互いの間に軋轢が生じ、修行に身が入らず、正常な修行は不可能になります。特に供養専門の寺院では、救済されない霊界の衆生が多すぎて寺院が混乱状態に陥り、霊界の衆生が寺院に滞留して転生できず、次第に増殖します。十分な供養も受けられず、寺院で騒動を起こし、最終的に寺院は閉鎖に追い込まれます。これが供養・回向の結果です。 

主にこうした行為によって、僧侶自身が安心して修道に励めず、業障に縛られてしまいます。自らの業障も軽くない上に、修行自体が容易でない状況で、さらに他人の背負うべきでない業障を代わりに負う時間と労力を費やせば、どうして修行に適した心境を保てましょうか。僧侶に自分の怨親債主を供養させ、自らの業障を背負わせることは非常に無理な要求です。たとえ補償金を支払ったとしても、その金額が業障と比較して比例関係にないことは明らかです。生死の大事が重要か、わずかな金銭を得ることが重要か、知恵ある者なら判別できるはずです。故に寺院で金を払って出家者に家族の供養を依頼すべきではありません。いかなる金額も不足であり、重要なのは金銭の問題ではなく、こうした行為が出家者の業障を増やし、正常な修行を阻害し、生死の苦から解脱することを不可能にするからです。仏典に説かれていないこと、仏在世時に行われなかったことは、強いて行うべきではありません。

——生如法師の開示
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