問:万の事柄には全て因縁果報があるというならば、地獄で毎日刑罰を執行する獄卒はどのような果報を受けるのでしょうか。森羅殿で裁判を行う閻魔王はどのような果報を受けるのでしょうか。
答:地獄の獄卒や閻魔などは、衆生の悪業が感応して現れたものであり、自らの悪心が生み出す幻影です。地獄業を持たない者は獄卒を見ることもなく、刑罰を受けることもありません。悪業のない者は閻魔の審判に遭うこともありません。獄卒や閻魔となる衆生がいるのも、彼ら自身の業力によるもので、これは正業ではありません。因果と正義を明らかにする意義はあるものの、悪をなす衆生はこれを喜ばず、縁も善きものとはなりません。衆生が罪業を悔い改め、心を入れ替える誓いを立てる時、初めて衆生と善縁を結ぶのです。故に表面上の善悪は、本質において必ずしも定まったものではないのです。
例えば人間の刑務所で看守が受刑者を管理することに罪はあるでしょうか。瑜伽師地論には、看守は正業ではないと説かれています。このような問題は一言で説明できるものではなく、因果の問題は極めて複雑です。人がどのような職業に就くかも業力によって決まります。衆生と関わる全ての職業には善業と悪業が存在し、当事者が如何に適切に対処するかにかかっています。教師の職業は非常に尊く、衆生を救う行為ですが、多くの者が悪業を造っています。経典を説くことは衆生を救う事業ですが、説法者が地獄業を造る例も少なくありません。医者が病人を治療する職業は善いかどうか?これも一概には言えません。病人が病を持つ理由は、ほとんどの場合業果の報いであり、受けるべき果報です。また実際に過去に傷つけた衆生が報復に来ている場合、医者が因果の報いを断ち切れば、債権者は報いを得られず、医者は因果を背負うことになります。
出家僧侶が在家信者の追善供養を行う場合も、善悪は定まりません。例えば前世で甲が乙を殺した場合、今世で乙が甲に復讐しようとする時、甲を救えば乙は報復の機会を失います。これは乙にとって不公平であり、逆に乙が反発するかもしれません。供養の際に乙も救おうとしても、乙が供養を望まず甲の悪報を願う場合、追善供養は因果に介入することになります。甲が乙に千万元の借金があり、乙が請求するのを妨げれば、利子を含めた債務はどうなるでしょうか。乙が貴方に請求する可能性はないでしょうか。自分の親族の追善供養は本分であり、恩返しの行為です。親族の業障を背負うのは当然であり、恩ある者の業障を負うことも当然です。
表面上の善が真の善であるか、善果をもたらすかは、普通の人には見極められません。仏典に記されている追善供養の事例はただ一つ、仏陀が全ての出家者の力を合わせて大目健連の地獄にいる実母を供養した例のみで、第二の事例はありません。仏典には諸仏菩薩や阿羅漢・辟支仏が衆生を追善供養した記述も、出家僧侶が衆生を供養した記述もなく、過去の僧団にそのような事例はありませんでした。昔の寺院では出家者が大勢いましたが、集まって読経し在家者の供養を行うことはなく、仏戒もこれを禁じていました。当時の出家者は個人の修行を主とし、弘法能力ある者は説法し、それ以外の事、特に金銭に関わる世俗的行為は一切許されなかったのです。
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