衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年02月02日    火曜日     第3 回の開示 合計3056回の開示

父子合集経講義(一一〇)

臨終における業報現前の様相

身口意の業行そのものは消滅し、命終の時を待つ。まさに息の絶えんとする刹那、この色身に受けるべき業報、造った業が、映画の如く速やかに過ぎ去る。一生の所業が瞬時に閃き、自らが造作した業の善悪、受けるべき報いの全てが明らかとなる。然るにその時はもはや言葉を発することが叶わず、親族に業の浄化や追善供養を求め、自らの赴くべき報いの処を告げることもできぬ。語り得る時には業行は現前せず、業報現前の時には語る能わず。臨終に業報が現前する時、この一生が全て夢の如きものであったことを覚り、過ぎ去り終わったことを知る。平生の生ける時には悟り得ぬその心境に至り、この世の生が夢の如く終わることを実感するのである。

仏法を学び修行して十回向位に至る時、ただ今生が夢の如きのみならず、前世もまた夢であり、来世も同じく夢であることを覚る。成仏に至るまでの未来世も全て夢中にあり、生生世世が夢の中で生死を繰り返す。菩薩が仏事を為し、自らを度し衆生を度すことも、皆夢中にあり、夢幻の如く実体なき所作、夢中の仏事に他ならない。

今の我々には理解するのみにて、証得せざれば体得できず、真実の感覚も無し。されば無始劫より生死の大夢を繰り返し、連続する夢の如く続いてきたことを知らない。成仏以前は全て生死の大夢の中にあり、分段生死の衆生は区切られた夢を見、分段生死を過ぎてもなお変易生死あり、微細にして長大な夢を見続ける。これもまた生死の大夢より完全に覚めたとは言えず、成仏して初めて生死の大夢は究竟するのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

瑜伽師地論 第十巻(十二因縁)

次の記事 次の記事

予知夢とは何か

ページのトップへ戻る