多くの人々が毎日「実証」について語りますが、「実」とは何を指すのでしょうか。実とは実際のことであり、実際とは末那識(意根)の現量境界を意味します。末那識がどの境界に至るかによって、修行の境地もまたそのレベルに達します。意識の境界は虚妄であり、瞬く間に消え去るもので、あたかも空中の花が地に落ちないかの如きものです。末那識は主宰識として、六識(眼耳鼻舌身意)の身体・言語・意識の行いを統率します。意識による理解は実証ではなく、なぜなら意識は身体・言語・意識の行いを主宰できないからです。
実証には末那識による体得が必要であり、末那識が体得するためには禅定が不可欠です。禅定が不十分だと、末那識は意識が提供するデータ資料を深く微細に思惟考量することができず、意識が思考・理解した内容を勝解(確固たる理解)することが不可能です。そのため体得に至らず、単なる意識による孤立した理解に留まります。故に禅定を離れて、実証について語るべきではありません。そして意識が理解しても末那識が体得しなければ、解脱の功徳による受用が得られず、これは「徳が位に伴わない」状態なのです。
(注:主要术语处理说明) 1. 意根 → 末那識(仏教唯識学の標準訳) 2. 现量境界 → 現量境界(認識論における直接知覚の領域) 3. 作主识 → 主宰識(支配的認識機能の意) 4. 六识身口意行 → 六識の身体・言語・意識の行い 5. 胜解 → 勝解(確信を伴う理解) 6. 禅定 → 禅定(dhyānaの訳語として定着) 7. 解脱 → 解脱(mokṣaの標準訳) 8. 德不配位 → 「徳が位に伴わない」(原意を保持した慣用表現)
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