原文:大王よ、最後に識が滅することを死蘊と名づけ、最初に識が起こることを生蘊と名づく。
釈:仏はこう説かれた。大王よ、命の最後には識心がすべて滅し、五蘊は死蘊と呼ばれる。最初に識心が生じる時、五蘊は生蘊と呼ばれるのである。
その中で罪業の大小は、心の行い、つまり嗔りの程度、そして嗔心があるかどうか、殺意があるかどうかによる。例えば、麻袋の中に一人の生きている人間が入っていたとする。ある人が意図せずにその人を殺してしまい、麻袋の中が人間だとは知らず、無生物の物体だと思い、刃物を突き刺して人が死んだ場合、これは故意の殺人にはあたらず、死後に地獄に堕ちて報いを受けることはない。とはいえ、将来その人に出会った時、やはりその人に意図せず殺されることになるが、地獄に堕ちて悪報を受けることはないだけである。人を殺す時は、それが故意か過失かを問う。故意の殺人は殺罪であり、人を殺す業である。過失による殺人は完全な殺人行為ではないが、それでも因果は残る。別の面から言えば、もしこの麻袋の中が人間ではなく木の塊だった場合、ある人が嗔りによって別の人だと見なして殺したとする。本来、木の塊は生命ではないので、それを殺すことは薪を割るのと同じだが、内心に恨みと殺意を抱いて人間として殺害した場合、この罪は大きい。罪の大小は心の使い方によるのである。
もし極めて大きな悪意で蟻一匹を踏み殺した場合、この罪も甚大である。なぜなら嗔心が強すぎるからであり、普通の殺生とは異なる。普通の殺生は時に過失によることもあり、時にわずかに嗔心を伴うこともあるが、その果報は全て異なる。だから法律上の量刑も同様で、故意殺人と過失致死に分かれ、判決結果も異なるのである。
まとめると、修行とは七識の妄心を修めることであり、妄心が修まれば心が清浄になり、阿頼耶識に悪業の種子がなければ、仏となり、自らの本来の面目を回復できるのである。我々の現在の阿頼耶識に含まれる業種は染汚し、無明がある。我々の七識心には貪・瞋・痴の煩悩があるが、仏の七識心はすべて清浄であり、すでに識が智に転じ、徹底して無我となっている。
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