衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月05日    金曜日     第1 回の開示 合計877回の開示

『父子合集経』選講

原文:大王。最後に識が滅する時、これを死蘊と呼びます。最初に識が起きる時、これを生蘊と呼びます。

釈:仏は説きます。大王、生命の最後において、識心が全て滅する時、五蘊は死蘊と呼ばれます。最初に識心が生じる時、五蘊は生蘊と呼ばれます。

其中における罪業の大小は、心行に在り、嗔の程度に在り、および嗔心があるか否か、殺心があるか否かに在ります。例えば、麻袋の中に一個の完整的活人が在ります。一個人が無意中に彼を殺し、麻袋の中が人であることを知らず、一個の無生命の物体と思い、刀子を捅進去し、人死します。これは故意殺人ではなく、死後は地狱に下り報を受けることはありません。しかしながら、将来その人に遇見する時、その人に無意中に殺一回されることになります。ただ地狱に下り悪報を受けることはありません。殺人の時、有心か無心かの殺を看ます。有心殺は殺罪となり、殺人の業に属します。無心殺は完整的殺人行為ではありませんが、因果は仍有ります。另一方面において、この麻袋の中が一塊の木头物体ではなく人である時、一個人が嗔恨を出し、另外の人と思い殺します。本来頭は生命ではなく、殺之は材を砍劈と同じですが、内心に恨意と殺意を怀き、人と思い殺します。この罪は大くなります。罪大罪小は用心に在ります。

极大の恶心で蚂蚁を踩死する時、この罪も大きくなります。嗔心が太重であるため、普通的殺とは異なります。普通的殺は時々無心であり、時々少し嗔心を带びます。果報全て異なります。法律上の判刑も同じ様です。有意殺と無意殺を分けます。判刑結果全て異なります。

まとめると、修行は七識妄心を修します。妄心が修好する時、心が清静になり、阿赖耶識の中に悪業の种子が無くなります。仏になり、本来面目を恢復します。我々現在の阿赖耶識の中に含む業種は染污あり、無明あり。我々の七識心は貪嗔痴煩惱あり。仏の七识心は全て清静であり、識を智に転じ、徹底に無我になりました。

——生如法師の開示
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