我見を断つとは、この「我」とは意根の俱生我見と意識の分別我見を指し、如来蔵の我見を断じるものではありません。如来蔵には我見がなく、断ずる必要もありません。意識と意根に五蘊十八界という法の苦・空・無常を観行させて初めて、意根と意識が五蘊十八界を我や我所ではないと確認できるのであり、如来蔵に五蘊十八界が我や我所ではないと確認させるのではありません。無我とは如来蔵の我の存在を否定するのではなく、五蘊十八界の実在性を否定するのです。
まさに五蘊十八界が世俗界において不変の実在法ではないが故に、意識と意根に五蘊十八界が無我であることを確認させ、もはや五蘊十八界を我や我所と認めないようにさせるのです。観行の結果は意識と意根に如来蔵が無我であること、あるいは如来蔵の我があることを確認させるものでも、如来蔵に自らが無我であることを確認させるものでもありません。観行前に如来蔵の我の存在を認めることはできますが、観行の結果を如来蔵に帰着させてはなりません。なぜなら観行の対象は五蘊十八界であって如来蔵ではなく、観行の内容を混同すれば結果も混乱し、結局我見を如実に断ずることができなくなるからです。
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