衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月26日    火曜日     第2 回の開示 合計3033回の開示

瑜伽師地論第十巻

(十三)原文:問。随眠が断じられずして、それに順ずる諸法に、取が皆生じ得るというならば、何故ここでは、ただ愛を取の縁と説くのか。答。希求によって生ずるが故に。追求する時、随眠を発起し、またそれに随順する法を引きうるが故なり。

釈:問う。煩悩が断除されていないため、求められる一切の法に執着の心が生じれば、これらの法は生じるはずである。何故ここでは、ただ愛が取を生じる因縁であると説くのか。答える。内心が諸法の生起を希求するが故に、法を追求する際に煩悩を引き起こし、また煩悩心を引き連れて諸法に随順するため、取が生じる。故に取が生じる因縁は随順、すなわち愛であり、随眠煩悩ではない。

随眠とは、煩悩が断除されていない時、常に阿頼耶識に随伴し、阿頼耶識に潜伏している状態、あるいは阿頼耶識に眠蔵している状態を指す。因縁が成熟すれば煩悩が顕現する。しかし煩悩はまた意根にも随伴し、意根に付き従い、因縁成熟の際に意根が煩悩を顕現させ、煩悩に随順する時、業行が生じる。貪愛も煩悩の一種であるが、貪愛があるが故に執着の心行が生じる。一方、瞋恚の煩悩は背反する性質を持ち、随順でも執着でもない。故に愛縁取と説き、煩悩縁取とは説かない。

原文:問。前に既に無明を縁として業有が発起されると説いた。何故今、取を縁として有を説くのか。答。取の力によって、即ちその業を彼彼の生処において識・名色等の果を引きうるが故なり。問。生もまた精血等を縁とする。何故ここではただ有を縁として生を説くのか。答。有があるが故に、必ず他の縁が欠けることなく存在する。また有が殊勝であるが故に、ただそれを縁と説く。

釈:問う。以前に無明を因縁として業果の三有が生じると説いたのに、何故今は取の因縁によって三有が生じると言うのか。答える。取の因縁力によって、造作された業果が各々の界地において生じ、その後六識や名色等の業果を引き起こすからである。故に取縁有と説く。

問う。生命体は父の精・母の血等を縁として生じるはずである。何故ここではただ三有を縁として生が生じると説くのか。答える。三有が存在するが故に、必ず他の縁が生起の条件を満たす。また三有が最も殊勝な縁であるが故に、ただ有を生の縁と説く。

原文:問。遠行や不避不平等、他者の逼迫等を縁として老死が生じ得る。何故ここではただ生を縁として老死を説くのか。答。それらの諸縁によっても、必ず生を根本とする故。仮にそれらの縁が欠けても、ただ生を縁とすれば、必ず老死が存在する故なり。

釈:問う。老死の現象は遠く行く際に外力の不平等な縁を避けられず、その逼迫を受けて生じるはずである。何故ここではただ生を因縁として老死が生じると説くのか。答える。老死を生じる縁は多数あるが、老死は必ず生を根本的因縁とする。たとえ他の縁がなくとも、生があれば必ず老死が存在する。生がなければ、いかなる縁があっても老死は生じない。故に生を老死の縁と説く。

——生如法師の開示
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