(十一)原文:問。身業語業。思によって起こされる。これならば行もまた行を縁とする。何故にただ無明を縁として行があると言うのか。答。一切の行を起こす縁に依って説くが故である。また善や染汚の思を生じる縁に依って説くが故である。問。識もまた名色を縁とする。何故ここではただ行を縁と説くのか。答。行は識の雑染縁であり、能く引き能く生じ、後の有の果をもたらすが故である。名色の如くただ依り所・縁となる生起縁ではないからである。
釈:問:身業と語業は、意根の思心所によって引き起こされる。従って行もまた身行・語行を生じる縁であり、身行・語行も行を縁として生じる。何故ただ無明縁行と説くのか。答:一切の行(意根の行である思心所を含む)を起こす縁に基づいて説くためである。一切の行は無明によって起こり、意根の思は無明があるからこそ働き、身行・語行を生じさせる。また善や染汚の思心所を生じる縁(無明)に基づいて説くためである。善の縁も染汚の縁も無明である故、無明縁行と説き、思心所の行が身行・語行の縁であるとは説かない。
問:六識も名色を縁として生じる。何故ここではただ行を縁として六識が生じると説くのか。答:行は六識の善悪無記の雑染縁であり、行は六識の生起を引き起こし、六識の現行を生じさせる。如何にして行の果があるのか、六識の身口意行が造作されるのである。名色がただ六識の生起に依る縁・所縁の縁(六識生起の直接的な縁)であるのとは異なる。両者の縁は区別され、意根の行は六識生起を引く縁、名色は六識が直接依る所縁の縁である。
原文:問。名色もまた大種によって造られ、触によって生じる。何故ただ識を縁と説くのか。答。識がそれ(名色)の新生の因となり得るが故である。それが既に生じた後、或いは生じつつある時、大種及び触はただそれ(名色)の建立因となるのみである。
釈:問:名色は七大種によって造られ、触の因縁によって生じる。入胎時には意触があり、出胎時には六入処がある。何故ここではただ六識を縁として名色が生じると説くのか。答:六識は名色が新たに生じる因縁となり得る。名色が生じた後、或いは生じつつある時、地水火風空見の六大種及び触は、名色が五蘊となるための建立因縁・継続因縁・変異因縁に過ぎない。両者の因縁は名色生起の前後で作用が異なり、引因縁としての重要性から識縁名色と説く故、大種や触の観点からは説かない。
原文:問。経典に説く所では六界を縁として母胎に入る。何故ここではただ識界と説くのか。答。識界があれば、必ず母胎中の精血大種が腹穴に欠けることないが故である。また識界が殊勝であるが故である。更に一切の生、一切の有が生じる時に依って説くが故である。
釈:問:経典に説かれる通り、地水火風空識の六界を縁として母胎に入る。何故ここではただ識界を縁として入胎すると説くのか。答:母胎に阿頼耶識界があれば、必ず胎児に必要な五大種から成る精血が身根・五臓六腑・七竅に遍満し欠けることがない故、名色は阿頼耶識界を縁とすると説く。また阿頼耶識界は心法であり、一切法中最も殊勝なるが故に、阿頼耶識を縁として入胎すると説く。更に一切法の生起、一切有の生起に依って、阿頼耶識が最勝の直接因縁であると説く。
母胎に入る識界は必ず阿頼耶識であり、六識ではない。入胎時には六識は滅し、胎内初期には六識は存在せず、阿頼耶識が存在する。胎中の受精卵の色は阿頼耶識が地水火風空の大種を生じて形成・維持する。胎中の第七識は阿頼耶識が識種子を提供することを必要とする。故に入胎するのは識界(阿頼耶識)であって、地水火風空界とは説かない。
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