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日常開示

2021年01月24日    日曜日     第1 回の開示 合計3026回の開示

瑜伽師地論第十巻

(十一)原文:問。身業語業。思より起こる所なり。是れは則ち行も亦た行を縁とす。何故に但だ無明を縁として行と説くや。答。一切の行を起こす縁に依りて説くが故なり。及び善く染汚の思を生ずる縁に依りて説くが故なり。問。識も亦た名色を縁とす。何故此の中に但だ行を以て縁と為すや。答。行は識の雑染の縁と為り、能く引き能く生じ、後の有の果あるが故なり。名色の如くにはあらず。但だ依る所の縁、縁として生起する縁と為すのみ。

釈:問:身業と語業は、意根の思心所によって引き起こされるものである。それ故に行もまた身行・語行を生じる縁であり、身行・語行も行を縁として生じると言えるのに、なぜただ無明を縁として行と言うのでしょうか。答:一切の行(意根の行である思心所を含む)を引き起こす縁に基づいて説いているためです。一切の行は無明によって起こり、意根の思は無明があるからこそ働き、身行と語行を生じさせるのです。また、善きものと染汚された思心所を生じる縁に基づいて説いているためです。善き縁も染汚の縁も無明であるため、無明を縁として行と言い、思心所の行を縁として身行・語行を説かないのです。

問:六識も名色を縁として生じるのに、なぜここではただ六識が行を縁とすると言うのでしょうか。答:行は六識の善悪無記の雑染の縁であり、行は六識の生起を引き起こし、六識の現れを生じさせ、如何にして行の果があるのか、六識の身口意の行が造り出されるのです。名色がただ六識の生起に依る縁、縁となる縁として存在するのとは異なります。二つの縁には区別があり、意根の行は六識の生起を引き起こす縁であり、名色は六識が直接に依る縁、縁となる縁なのです。

原文:問。名色も亦た大種の造る所により、触より生ずる所なり。何故に但だ識を以て縁と為すや。答。識は能く彼の新たに生ずる因と為るが故なり。彼既に生じたる後、或いは正に生ぜんとする時に、大種及び触は唯だ彼の為に建立の因を与うるのみ。

釈:問:名色も七大種によって造られ、触の因縁によって生じるものであるのに(入胎時には意触があり、出胎時には六入処がある)、なぜここではただ名色が六識を縁として生じると言うのでしょうか。答:六識は名色が新たに生じる因縁となり得るからです。名色が生じた後、あるいはまさに生じようとする時、地水火風空見の六大種および触は、名色が五蘊となるための建立因縁・継続因縁・変異因縁として作用するに過ぎません。二つの因縁は名色の出生の前後で異なる作用を持ち、引生因縁の重要性の観点から識を縁として名色を説くため、大種や触の観点からは説かないのです。

原文:問。経中に説く所に、六界を縁として母胎に入るを得と。何故此の中に唯だ識界を説くや。答。若し識界有らば、決して母胎の中に於て、精血の大種、腹穴の欠くる無きを定むるが故なり。又た識界勝れたるが故なり。又た一切の生に依り、一切の有の生ずる時に説くが故なり。

釈:問:経典に説かれるように、地水火風空識の六界を縁として母胎に入るのに、なぜここではただ識界を縁と説くのでしょうか。答:もし母胎に阿頼耶識界が存在すれば、必ず母胎中の胎児に必要な五大種から成る精血が身根の五臓六腑や七竅に遍満し、欠けることがないためです。また阿頼耶識界は心法であり、一切の法中最も勝れているからです。さらに一切法の出生、一切有の出生に基づいて、阿頼耶識が最も勝れた入胎と名色出生の直接因縁であると説くためです。

母胎に入る識界は必ず阿頼耶識であり、六識ではありません。入胎すると六識は滅し、胎内初期には六識は存在せず、阿頼耶識が存在するからです。また胎中の受精卵の色は阿頼耶識が地水火風空の大種を生じさせて変化・保持し、胎内の第七識は阿頼耶識が識の種子を提供して維持されるため、母胎に入るのは識界である阿頼耶識であって、地水火風空界ではないからです。

——生如法師の開示
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